ルカの描くイエス
パウロの考えに合わせるのではなく、マタイが描くイエスの言葉をそのまま素直に読むと、「人はその良い行ないによって正しい者とされる」と読めます。
では、ルカの描くイエスはどうなのでしょう。
ルカ福音書から引用します。
16:19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 16:21金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 16:22さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 16:24彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 16:25アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 16:26そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 16:27彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 16:28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 16:30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 16:31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』(ルカ 新改訳)(ハデス=陰府、引用者)
以前も引用しましたが、興味深い箇所です。
「ラザロには信仰があった」とはまったく書かれていません!
苦しんで死んでいったことが書かれているだけです。
また、「金持ちには信仰がなかった」とも書かれていません。
ラザロが全身の出来物と空腹で苦しんでいるのを知りながら、自分はぜいたくに遊び暮らし、ちっとも助けようとしなかったことが書いてあるのです。
パウロというフィルターを通さないでここだけ読んだらどうでしょう。
「病気や、貧困や、飢えの中で、苦しんで死んでいった人は、苦しんで死んでいったというだけでアブラハムのふところまで上げられる」という主張でしょう。
ここでは、信仰の有無などまったく問われていません。良い行ないをしたかどうかも問われていません。
この箇所を引用して説教する牧師たちは、何故この話からラザロの信仰を読み取ろうとするのでしょう。「ラザロには信仰があった」なんて、イエスはまったく言っていないのに。
たとえ話ですから架空の話なのでしょうが、ラザロという具体的な名前まで出てきます。しかもこの金持ちはラザロの名を知っていたのです。
もしかすると、何か、実際にあった出来事をモデルにした話なのかもしれません。
イエスの時代、何の落ち度もないのに、病気や、貧困や、飢えの中で、苦しんで死んでいく人たちがいて、イエスはその現実を知っていたのでしょう。
歴史の中でも、ずっとそうでした。時に、教会は人の苦しみを助長する側でした。
現代でも、苦しんで死んでいく人たちがいる一方で、豊かに暮らしているクリスチャンたちがいます。
苦しんで死んでいった異教徒たちはみな永遠の地獄で焼かれ、豊かなクリスチャンたちは「信仰」によって救われてみな天国に行くのでしょうか?
前にも書いたとおり、私は、難民・移民を拒絶するクリスチャン、壁を作ろうとする人やその支持者のクリスチャン、イスラム文化圏の人たちを平気で抑圧するクリスチャンのことを思います。彼らは、自分たちは正しいキリスト教を信じているとしながらイエスを拒絶しています。
イエスを拒絶する「正しい信仰」!
そのことに気づいてほしいと思います。
参照 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/01/post-b275.html
ルカの描くイエスは弱者に優しいのです。
苦しんで死んでいったラザロは、信仰の有無も善行の有無も問われません。御使いによってアブラハムのふところへ上げられたのです。
著者は医者のルカとされてきました。もしそうなら、パウロの伝道の旅に同行した人です。でも、その視点は、パウロとはだいぶ違います。
(伊藤一滴)
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