イエスよりパウロを重視する人たち
キリスト教を名乗る人たちの中に、「イエスは何を教えたのか」より「パウロは何を教えたのか」を重視したがる人たちがいます。
パウロ重視の源流は原始キリスト教の時代にまで遡るのでしょうが、ルターやカルヴァンによって強化され、今に至っています。
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記されたイエスの言葉さえ、いったんパウロというフィルターを通して解釈するのです。その人は無意識にそうするのでしょうが、イエスの言葉よりもパウロの言葉が上で、「パウロの下にイエスがいる」形になっています。
もちろんパウロ自身は自分はイエスより上だなんて言ってませんが、「パウロが理解した信仰」を「共観福音書が伝えるイエスの言葉」より上に置くクリスチャンがかなりいるんです。
何の先入観も持たずに素直に福音書を読むなら、「人はそのよい行ないによって正しい者とされる」「何の落ち度もないのに苦しんで死んでいった人は、信仰や善行の有無を問われずにアブラハムのふところに上げられる」と読めるイエスの言葉さえ、パウロの見解を使って否定するのです。
だから、
「キリスト教と名乗るパウロ教だ」
と揶揄されるのです。
「聖書的にこうです」という言葉をやたら使う人がいますが、多くの場合「パウロの見解に照らし、こう解釈します」という意味か、あるいは単に「私の教会の(または私個人の)見解ではこうです」という意味です。
聖書を専門的に学んだ人たちは「聖書的にこうです」なんて、軽々しく言いません。そんなことは簡単に言えないと、よくわかっているからです。
聖書の学びの水準が低く視野も狭い人たちが、やたら「聖書的にこうです」とか、「聖書のこの箇所はこういう意味です」とか、断定的に言いたがる傾向があるようです。劣等感があるから、自分の弱点を見せたくなくて、さもわかっているかのように断定的に言うのかもしれません。しかもそう言う人たちも一枚岩ではなく、それぞれの立場でそれぞれに違うことを断定したりします。
牧師まで「聖書的にこうです」や「聖書のこの箇所はこういう意味です」を連発するようであれば、おそらく、聖書の学びの水準が低く視野も狭い牧師でしょうから、その教会から離れることも含めて距離を取ることを考えた方がいいと思います。
(伊藤一滴)
付記
例外もあるかも知れませんが、多くの場合、教会や牧師の水準と信者の金銭や労力の負担は反比例の関係にあるようです。つまり、教会や牧師の水準が高いと、信者の負担が少なくて済み、水準の低い教会や牧師だと、信者の負担が大きくなるのです。中には、罪・悪魔・地獄などの恐怖で信者を脅し、お金や労力を搾取する「教会」もあるようです。そういう「教会」は、集められたお金が何に使われたのか不明朗であったりします。
私は、特にブランド志向ではありませんが、教会で話を聞いてみたいという方には名の通った有名ブランドの教会をおすすめしています。社会的信用のある有名な教会は、一般的に安全で信頼できる場合が多いからです。あの人たちは信頼できる人たちだという社会の共通認識があるから、信頼される教会として存在しているのです。また、そこに集う人たちと関係のある学校、医療機関、福祉団体等々も信頼できる場合が多いのです。
団体の大きさではありませんが、信頼できる人たちは「信頼できる人たちの集まり」をつくり、信頼できない人たちは「信頼できない人たちの集まり」をつくります。「信頼できない人たちの集まり」の中で、良い学びや良い活動はできません。
教会はその人のステイタスシンボルではありません。有名ブランドの教会は、服や鞄やアクセサリーとは違います。人に自慢するものでもありません。信頼できる教会だから、自然と有名ブランドになったのです。
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