山里の暮らし4
山里暮らしをしながら、だんだん循環型の生活を目ざしてきました。
ただ、現代は合成樹脂や化学物質を含む製品が多く、そうしたものがゴミになるので、完全な循環型の生活にはなりません。
紙もうっかり焼けません。合成樹脂がコーティングしてある紙もあるし、障子紙のような化繊まじりの紙もあるし、印刷のインクにも化学物質が含まれるでしょうし・・・・。
再資源化の回収がある物品は回収に出し、それ以外の紙や合成樹脂はゴミ袋に入れて自治体の回収に出してます。
合成樹脂や化学物質の問題は人類全体で取り組むべき課題の一つでしょう。ゴミを減らしたくとも、家庭でできることは限られます。
山里で3人の子どもを育てました。ふもとの小学校、川の向こうの中学校がスクールバスで送迎してくれました。
学校でのいじめの話はありませんでした。生徒数が少なくて、みんな仲がいいんです。
「学習塾もないような田舎で、十分に勉強できないんじゃないか」と言う人がいましたが、逆でした。少数ですから、先生が一人一人をじっくり見てくれるんです。田舎の子の平均的な学力は高いです。
子どもの学習だけでなく、私自身も、山里に来てから新約ギリシャ語の学びを始めました。スラスラ読めるわけではありませんが、ここは同じ単語が使われているとか、違うとか、原語(校訂本)を参照できるようになりました。もし兼業農家にならずに街の中で勤め人をしていたら、語学を学ぶ余裕はなかったろうと思います。それに、子どもが小さかった頃に、絵本を読んであげたり宿題をみてあげたりできたろうか、そもそも、子どもを3人育てることができたろうかって、想像してしまいます。
もう一つ、山里暮らしが苦にならないのはインターネットの普及でしょう。山の中にいても全国はもちろん世界とつながっており、種々の情報を得られます(ウソ情報も混じっているので、注意が必要ですが)。
インターネットはいろいろな学習にも使えます。私も妻も、子どもたちには自然の中で思い切り遊んでもらいたくて勉強の強要はしませんでしたが、本人たちがやりたがり、インターネットが役立ちました。特に英語の学習は、発音も聞けるので助かりました。
郵便も宅急便も届きますから、ネットで種々の物品を買うこともできます。こんな山の中にいて、レイチェル・ヘルド・エヴァンズの著書が読める時代なのです。
今後、いっそう田舎暮らしが見直されるのかもしれません。
そりゃあ、大変な面もあります。
ふもとまで下りないと店がないし、ふもとの集落も過疎化が進んで店が少なくなり、今は食料品を買うのも川の向うまで行っての買い物だし。
今70歳くらいの人だと、若い頃はふもとまで歩いて魚屋や肉屋で買い物をし、荷物を背負って山道を登って帰ってきたそうです。50年くらい前まではそれが当たり前だったそうです。近所の人が、「家まで車で来れる日がくるとは思わなかった」と言ってました。
数年前の話ですが、集落の人が冬にふもとの店でお酒を飲んで、タクシーで帰ろうとして、タクシーが雪の坂道を登れなくなった、ということがありました。タクシー会社の四輪駆動車が救援に来て何とかしてくれたそうですが。
私も妻も、当然、四輪駆動車を使ってます。
冬は寒いし、道路は凍るし、豪雪はきついし、それに、世話をしてきたニワトリを肉にするのは、つらいし。いろいろありますね。
犯罪のない集落ですが、すぐ近くでクマが出たり、ヘビやムカデが家に入ってきたり、最近はイノシシの被害もあります。
自然に近い暮らしとは、そういうものなのでしょう。
いろいろ大変さはあります。でも、ここにいると不思議なくらい居心地がいいのです。
パソコンもタブレット端末も使っているんで、すべて昔と同じではないのですが、ある面は、半世紀前やもっと前のような暮らしです。
昔の人はこんなふうに生活していたのかと思いながら、家の修理も自分でやり、冬は火を焚いて、あえて不便なこともやっています。そして、それが楽しいと思える山里暮らしです。
家は古民家。
家の外は大自然。
夜は降って来そうな満天の星で、天の川までくっきり見えます。
呼吸をしても空気のおいしさが違います。
本当に、空気のおいしさまで違うんです。
用があって上京し、帰りに山形駅で降りると、山形駅前の空気がおいしく感じられるのですが、山里まで帰ると、山形駅前よりさらに空気がおいしいのです。
もう、街の中では暮らしたくないです。
(伊藤一滴)
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