聖書の食い違い 会堂管理者の言葉 ユダの死
聖書の中には食い違う記述が多数あります。(※1)
食い違いは非常に多いのですが、今日は、私が子どもの頃から気になっていたヤイロの娘が生き返る話の矛盾点とユダの死の矛盾点について書きます。
「あなたが読んだ聖書は信仰的な訳ではないから食い違っているのです」なんて言われないよう、福音派が訳した新改訳(初版)から引用します。
実際に、小学生だった私が読んだのも「新約聖書 新改訳」(初版)でした。
まず、
「マルコの福音書」より
5:21イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。 5:22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、 5:23いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」 5:24そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
(十二年間長血をわずらっていた女がイエスの服に触れる話がここに入る。省略)
5:35イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」 5:36イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 5:37そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。 5:38彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、 5:39中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」 5:40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。 5:41そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。) 5:42すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。 5:43イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。
次に
「マタイの福音書」より
9:18イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」 9:19イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。 9:20すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。 9:21「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。 9:22イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。 9:23イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、 9:24言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。 9:25イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。 9:26このうわさはその地方全体に広まった。
小学生の私でも、この食い違いに気づいていました。
会堂管理者ヤイロがイエスの所に来たとき、娘は死にかけていたのか、いま死んだところだったのか。
ささいな違いではありません。自分の娘が死にそうなのか、すでに死んでしまったのかの違いです。
死にそうな娘を治してほしい、と言いに来たのか、死んだ娘を生き返らせてほしい、と言いに来たのか。
「聖書は一字一句に至るまで神の霊感によって書かれており、無誤無謬です」、「聖書に食い違いなどありません」、「聖書に矛盾点などありません」と言い張る人たちはどう説明するのかと思ったのですが、納得のいく説明を聞いたことがありません。
ウルトラCみたいな「説明」は、「マルコにはヤイロという名前が出てくるがマタイには名前が出てこない。別の会堂管理者だ」という話です。はあ? じゃあ十二年間長血(※2)をわずらっていた女も別の女?
そうか、マタイとマルコは別人の別の話を書いたのか。会堂管理者の父と娘も、長血の女も、マルコの話とマタイの話は別の場面の別の人。そんなふうに別の話だと言い張れば何でもありです。
じゃあ、イエスの最期だって、復活の場面だって食い違っているけれど、イエスは何人いたのですか?
それぞれ別のイエスの話ですか?
もう一つ、イエスを裏切ったユダの最期です。
これも、小学生のときから食い違いに気づいていました。
「マタイの福音書」より
27:1さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。 27:2それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
27:3そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、 27:4「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。 27:5それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 27:6祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。 27:7彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。 27:8それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。
「使徒の働き」(使徒行伝)より
1:15そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。 1:16「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。 1:17ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。 1:18(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。 1:19このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。) 1:20実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』(※3)
ユダは首を吊って死んだのか、真っ逆さまに転落して体が裂けて死んだのか?
まさかユダは何人もいたって言うんじゃないでしょうね。
首を吊ったらロープが切れて転落したって?
真っ逆さまに落ちて体が裂けるくらいなら、かなり高い場所から落ちたのでしょうが、畑にかなり高い場所があるのも、わざわざそんな高い場所まで上って首を吊るのも不自然です。
それに、畑の土の上に落ちて、体が真っ二つになるんでしょうか。
人にはできないことも神にはできる?
はあ?
神は矛盾することもできる? 同じ人を違う方法で何度も殺せる?
首を吊って死んだユダの死体は谷に捨てられ、そのときに腹が裂けたって? そういう、聖書のどこにも書かれていない話を持ってくるんですか? 人には「そんなことが聖書のどこに書いてあるんですか? 信仰の論拠は聖書に書いてあることだけです。あなたは聖書にないことを言っており、間違っています」って、やたらからんでくるのに。自分は聖書のどこにも書かれていない話でつじつま合わせをしていいんですか。それに、もし死体が谷に捨てられたと言うのなら、ユダは谷底に土地を買ったということになるでしょう(マタイの話だと、「祭司長たち」が土地を買ったのですが)。谷底に陶器職人の畑があった? 日当たりが悪そうな畑ですね。
えっ、陶器職人の畑というのは粘土の採取場のことで本当の畑ではないって。だから日当たりは関係ない? 農民が畑から作物を得るように、陶器職人は粘土の採取場から粘土を得ていた、だからその場所を「畑」と呼んでいたって? また、そういう、聖書のどこにも書かれていない話をする。遺体が捨てられるような場所から粘土を取って焼き物を焼いていたんですか? 血の穢れを気にするイスラエルの民が? えっ? その陶器職人は異邦人だったのだろうって? どんどん創作が広がりますね?
土地を買ったのは祭司長たちなのかユダなのか、「血の畑」あるいは「血の地所」と呼ばれるのは、イエスの血の代価だからかユダの血のゆえか。
「ユダのお金で買ったのだから、祭司長たちが買ってもユダが買ったことになる」と説明する人もいますが、ユダの死後に祭司長たちが相談して土地を買ったことを、「この男(ユダ)は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが」ってペトロが言うんですか?
「祭司長たちが言った「血の代価」とはユダの血のことだ」と言う人もいますが、ユダは「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言ってますから、これも素直に読めばイエスの血のことでしょう。
聖書にない話を持ってきて屁理屈を重ねていけば何とでも言えるのでしょうけれど、矛盾点が出てくるたびにウルトラCみたいな「説明」ですか?
そんな無理な説明をしていたら、聖書は神の教えと言うより、人間がどんどん創作を加えてつじつま合わせをする教えになってゆきます。
そのような、人間の創作でつないだ話が無誤無謬なのですか?
「聖書に書いてある話」と「つじつま合わせのための人間の創作」とを継ぎはぎしたパッチワークみたいな話が信仰の論拠?
それでいいんですか?
(伊藤一滴)
※1 佐倉哲氏の「聖書の間違い」に、いろいろと指摘があります。
(http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html)
※2「長血」と以前から訳れています。婦人病でしょうか。出血が続く病気のようです。
※3 18節~19節が( )でくくってある理由について、何の説明もありません。写本によってはこの箇所を欠くと言いたいんでしょうか。牧師によってはそう言うのでしょうか。
新改訳聖書の場合、有力な写本に食い違いがある場合は「異本」として欄外に指摘があるのですが、どういうわけか、この箇所には欄外の説明もありません。聖書写本は膨大な数ですから、中にはこの部分が欠落した写本もあるのかもしれませんが、たぶん、有力な写本ではないのでしょう。( )でくくっておきながら理由を説明しないのは、何か意図があってのことなのか、単なるうっかりミスなのか、私にはわかりませんが。
これまで見つかった新約聖書の写本は、多くは不完全で、ごく一部も含めて5千点以上。食い違う箇所は万単位です。数え方によって、食い違いは10万箇所、20万箇所、それ以上とも言われています!
念のため、ネストレ・アーラント校訂28版 Novum Testamentum Graece (NA 28)を見てみましたが、この箇所に括弧はありません。
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