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イエスと共に十字架につけられた犯罪人の矛盾

イエスと共に十字架につけられた2人の犯罪人の矛盾について、これまでもいろいろな方が指摘されておられます。佐倉哲氏の「聖書の間違い」にも書いてあります。
マルコとマタイはほぼ同じことを言い、ルカだけが違っているのです。(ヨハネは2人の犯罪人の態度や発言を何も記していません。)

口語訳聖書から引用します。(たまたま口語訳で読んでいただけで、深い意味はありません。)

マルコによる福音書より
15:27また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。〔 15:28こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕 15:29そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、 15:30十字架からおりてきて自分を救え」。 15:31祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。 15:32イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

マタイによる福音書より
27:38同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 27:39そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって 27:40言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。 27:41祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、 27:42「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 27:43彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。 27:44一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

ルカによる福音書より
23:39十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 23:40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 23:41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。


原理主義者は矛盾はないと言います。
「最初のうち2人の強盗(ルカでは犯罪人)がイエス様をののしっていました。でも途中で1人が回心し、もう1人をたしなめたのです。ルカの書いた回心の話が、マルコやマタイでは省略されているだけで、矛盾はしていません」
そういった「説明」を何度も聞きました。

たしかに、そう「説明」すれば言葉としては矛盾しないのでしょう。しかし、言葉として矛盾しなくとも、新約聖書の思想として、福音のメッセージとして、矛盾はないのでしょうか。

「2人の強盗がイエスをののしったこと」と、

「2人のうちの1人が十字架の上で回心し、楽園行きを約束されたこと」と、

どちらが新約聖書の思想として、福音のメッセージとして大事なのですか?

マルコとマタイは、「2人の強盗がイエスをののしったこと」の方が大事だと思ったのでしょうか?

どんな犯罪人でも、また、たとえ死の直前でも、悔い改める者には救いが与えられるというのは、新約聖書の大切な教えではないのですか。
福音書を執筆するほどの信仰があったマルコやマタイは、この大事な教えを省略して平気だったのでしょうか?

「聖書に矛盾はない」という先入観に囚われると、つじつま合わせが優先され、大切なメッセージが見えなくなってしまうのです。本末転倒です。
このような本末転倒が、「正統的プロテスタントの、正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」たちにしばしば見られます。


マルコやマタイは犯罪人の1人が悔い改めた話を知らなかった、としか考えられません。
もし知っていたら、こんな大事な話を省略するのはあまりにも不自然だからです。

犯罪人の1人が悔い改めた話について、ルカは系統の違う資料を持っていたのか、あるいは、ルカ自身が悔い改めとはこういうことだという説明のためにこの話を書いたのか、あるいは何か別の理由があったのか、今となってはわかりません。

マルコやマタイは犯罪人の1人が悔い改めたという話を知らなかった、と考えれば、この食い違いを説明できますし、福音として伝えるべきことの優先順位がおかしくなることもありません。

聖書には、多くの矛盾があります。
そして、矛盾があるからといって、価値がないということにはなりません。

(伊藤一滴)

補注 便宜上、マルコ福音書の著者をマルコ、マタイ福音書の著者をマタイと書きました。マルコは、ペトロの通訳者(解説者?)であったというヨハネ・マルコなる人物なのかもしれません。マタイが何者なのかは不明です。12使徒の一人のマタイとは関係ないようです。

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