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イエスの処刑は過ぎ越しの食事の前か後か

「イエスの処刑は過ぎ越しの食事の前か後か?」と聞かれたら、どう答えましょう。
共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)を読むと、弟子たちと「最後の晩餐」をして、そのあとイエスは捕まり翌日に処刑されています(※)。ですから、処刑は過ぎ越しの食事の後になります。
ところが、ヨハネ福音書を読むと、イエスは過ぎ越しの祝いの食事の前日に処刑されています。だから、ヨハネには「最後の晩餐」も出てきません。

都合が悪いのか、教会も信者もこの話をしたがらないようです。私は自分で気づくまで、このズレについて聞いたことがありませんでした。


共観福音書では、イエスは弟子たちと過ぎ越しの食事をしています。その前日の処刑はありえません。

ヨハネ福音書だと、イエスは過ぎ越しの食事の前日に処刑されています。


これは、つじつま合わせのしようがない矛盾です。

「聖書には一切矛盾はない」人たちはどう説明するのかと思いました。まさか、「別のイエス様です、イエス様は何人もおられたのです」なんて言わないだろうし。

私も仰天した「説明」の一例です。
「天文学が発達していなかった当時、暦には誤差があり、同じ民族の中でも数日違うカレンダーが使われることがあったのでしょう。共観福音書の著者とヨハネは1日違うカレンダーを使ったと考えれば矛盾しません。だからどちらも正しいのです」
というものです。

びっくり。

神の子イエスが1日ずれた暦に基づいて最後の晩餐をやった?
または、
ユダヤの神殿当局が公式に1日ずれた暦を使っていた?

あなた方が言うように「ヨハネ福音書の著者は使徒ヨハネ」なら(私はそうは思いませんが)、使徒ヨハネも最後の晩餐の場にいたんじゃないの? だのにヨハネは暦のズレについて何も思わなかったの?

他の「説明」だと、
「イエス様の最後の晩餐は、正式な過ぎ越しの食事ではなく、前もって行なわれた食事です」
というのもありました。でも、「過ぎ越しの食事」って書いてありますよ。一字一句に至るまで無誤無謬の聖書に。

あとは、「イエス様は、ユダヤの暦の通りではなく、前もって独自に過ぎ越しを祝われたのです」
という「説明」もありました。
イエスが、そんな、独自のやり方で、大みそかに正月を祝うようなことをしたんでしょうか? その不自然さに弟子たちは何も言わなかったのでしょうか? もし前もって独自に過ぎ越しを祝ったのなら、共観福音書の著者による説明があってもよさそうなのに、何の言及もありません。


マルコが用いた資料では暦どおりの過ぎ越しの食事だったのでしょう。マタイとルカはマルコ福音書を見ながらこの箇所を書いたので似た内容となり、ヨハネだけマルコに従わず系統の違う資料を使ったようです。


原理主義者らのつじつま合わせの想像につきあっても真実はわかりません。

現実にどうだったのかは、もう、誰にもわからないのです。

可能性として、次のように考えることもできます。

1.イエスの処刑は過ぎ越しの食事の前日であったが、聖餐式の教義が形成される中で、最後の晩餐を描く都合上、共観福音書には実際の処刑の日とずれた記述がなされた。(ヨハネが歴史的事実を反映)

2.上記とは逆に、イエスこそ過ぎ越しの食事のために前日に屠られる小羊のようにいけにえとなったのだ、という主張に合わせ、ヨハネ福音書の著者は前日だと記述した。(共観福音書が歴史的事実を反映)

3.どちらも歴史的事実と違い、それぞれが、それぞれの神学の反映。

可能性としては、大きくはこの3つでしょう。

日が違うのに「共観福音書もヨハネ福音書もどちらも正しい」という「説明」は成り立ちません。どうしても説明しようとすれば、上に挙げた彼らの主張のような無理な「説明」になります。

聖書に矛盾はないとどこまでも言い張るのなら、しまいには、「イエス様は複数いてそれぞれ別の日に処刑された」とでも言うしかないでしょう。

「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」と、私は何度も言われました。
信仰とは矛盾した内容を信じることですか?
聖書にない話を創作して話をつなぎ、強引につじつま合わせをすることですか?
両立しない話を、無理やり、屁理屈で両立させようとすることですか?

ある種のイデオロギーのマインドコントロール下に置かれることを「信仰」と呼ぶ人たちがいます。そうした「信仰」に入ってしまうと、独自の世界観になってしまい、ものを見るのも、文章を読むのも、正常な判断ができなくなってしまいます。先に自分たちなりの「正しさ」があり、その「正しさ」に合致するように、現実を見る目を曲げてしまうのです。そして、もしかしたら自分は間違っているのかもしれないとさえ思わなくなります。それはおかしいと指摘されても、「サタンの声だ」とか「自分は正しい信仰だから弾圧される」とか思ってしまうのです。注意が必要です。

(伊藤一滴)

(※)現代で言う「翌日」です。当時のユダヤでは日が沈めば翌日だったそうですから、夜に捕らえられ、私たちが言う意味での「翌日」に処刑されたのは、当時のユダヤ人たちにしてみれば当日の処刑です。

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