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キリスト教 寛容派と不寛容派 原理主義の本質

キリスト教を名乗る団体はたくさんあり、言い分はいろいろです。
キリスト教の見解は、分類するのがちょっと無理なくらい細かく分かれています。

西方教会と東方教会、カトリックとプロテスタント、プロテスタントの主流派と福音派、福音派には穏健派から極端な原理主義まであって、一部はカルト化・・・・、みたいな分類もありますが、同じ教派内でも意見が分かれていたりするので、厳密な分類はまず無理です。

しかし、大きく、キリスト教を分ければ、
寛容派と不寛容派、
この2派だけではないのですか?

極端な原理主義は別として、たいていの教派に寛容な人と不寛容な人がいます。
だから、キリスト教には、寛容派と不寛容派の2派しかないと考えることもできるのです。
もちろん、ある面は寛容だけれど別の面では不寛容ということもあるでしょうから、すべてはっきり白黒分かれるわけではありません。でも、どちらかと言えば寛容、どちらかと言えば不寛容と分ければ、やはり、寛容派と不寛容派の2派しかないように思えます。

イエス自身は、もちろん寛容派です。
ファリサイ派や律法学者は、例外もいますが、不寛容派として描かれています。
混同している人がいますが、不寛容と熱心な信仰は違います。

さて、クリスチャンは、どちらの道を行くのでしょう?

「罪の意識」と「地獄の恐怖」に日々おびえながら、そして、自分がおびえるこの2つで人を脅しながら、どこまでも聖書に出てくるファリサイ派や律法学者のように不寛容に生きることが「正しい聖書信仰」?

私はやっと、福音派と称する中のキリスト教原理主義の本質がはっきり解りました。
その本質は「罪の意識」と「地獄の恐怖」です
前から、うすうす気づいてはいましたが、野原花子著『聖書はもういらない』を読んで、もう間違いないと思いました。
神の愛も、キリストの贖いも、みな、罪の意識と地獄の恐怖から自分を救ってくれるためにあるのです。
イエスが教えた隣人愛の実践さえも、「罪の意識と地獄の恐怖から解放され、死んでから天国に行きたいから」という、そのための隣人愛に矮小化されるのです。

キリスト教原理主義者にとっての「信仰」は、免罪符の購入と何が違うんですか?

免罪符を買った人たちも、「罪の意識と地獄の恐怖から解放され、死んでから天国に行きたいから」買ったのでしょう。

免罪符なら毎週買う必要はないでしょうが、「正しい聖書信仰」の「正統的プロテスタント」の「福音的な教会」に所属すれば、毎週、ずっとそこに行かなければならなくなります。「罪の意識」と「地獄の恐怖」で、その派の教会から離れられなり、奉仕や伝道に参加し、収入がある限りそれ相応の額を献金し続けなければならなくなります。罪の意識と地獄の恐怖によるみごとな支配構造です。その人の精神を人質にされたような、抜け出せない支配ですから、それは一種のマインドコントロールでしょう。
支配からの解放を解いたイエスの教えが、正反対に使われるとは!

福音派と称する人たちの一部の中世化、悪い意味での中世的カトリック化ではありませんか!

やはり、と言うか、その発想も中世的です。
「人は神によって創造されました。進化などしていません。進化論は間違っています」
「他の説もありますが、聖書の年数を計算すると天地創造は紀元前4004年頃ですから、それ以前の歴史はないと考えるのが、聖書的に有力です。何万年も前の遺跡や、何億年も前の化石などありません。まだ地球がなかったのですから、そうしたものが存在するはずがありません。それらは何かの間違いか捏造です」
「ノアの箱舟のときの洪水で地球全体が水没し、この水没で恐竜が絶滅したり、グランドキャニオンができたりしたのでしょう。地球には約46億年の歴史があるとか、何億年も前に恐竜がいて人類の発生より先に滅んだとかいうのは反聖書的な無神論の考えです」
「聖書に書いてあることはみな事実です。もし古生物学や考古学の発見と聖書の記述に食い違いがあれば、それは古生物学や考古学の方が間違っているのです」
etc.

もう、「はやく目を覚ましてください」としか言いようがありません。

野原花子氏の場合、目を覚ますことで聖書やキリスト教から離れ、救われたのです。
(聖書やキリスト教から離れて救われた、というのは、何とも逆説的です。)

野原花子著『聖書はもういらない』には、著者が訪れたイスラエルの風景写真が何枚も載っています。本文とは関係のないイスラエルの写真です。
「聖書はもういらない」と言いながら、野原氏は、かつてイエスが生きて活動した場所の写真を大切にし、歴史の中に本当にいたイエスを求めているのではないのでしょうか? これまで自分の所属教会で教えられてきたイエス様ではなくて。

(伊藤一滴)

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