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創作 あるクリスチャンの説得

人はみな罪びとだと教えられ、罪から来る報酬は死だと教えられ、そうした教えがいつも頭から離れず、苦しんだのですね。
さぞ苦しかったことでしょう。ずいぶん、おつらい思いをなさったのですね。

確かにキリスト教には、人はみな罪びとだという考えがあります。しかし、人がみなそうだということは、それは万人が持つ性質だとも言えるのです。

生まれつき万人に備わっている性質ゆえに地獄に行くというのは、はたして、筋の通った説明でしょうか。
アダムとエバの罪を受け継いでいるから人はみな罪びとだというのは、人間とはどういう者かを説明するための神学上の話です。あなたの先祖のネアンデルタール人の1人がやったことの責任が今のあなたにもありますか。そのためにあなたは死刑になるのですか。

いったい、誰が地獄に行けるのでしょう。地獄に行けるほど大きな罪を、誰が犯すことができるのでしょう。
私たちは、ちっぽけな人間に過ぎません。ちっぽけな、一般の庶民が、地獄に行けるほど大きな罪を犯す能力を持っているのでしょうか。
ゼロだとは言いませんが、地獄に行くほどの能力があり、その力をふるうことができる人なんて、ごく少数だと思います。少なくとも、あなたや私には当てはまらないでしょう。

「聖書にこう書いてあります」と言われ、脅されたのですね。大変でしたね。聖書は、古代人が、古代人の世界観で書いた書物です。矛盾する箇所もありますし、歴史的事実に反する箇所も多数あります。そのままでは現代に通じないのです。でも、だから意味のない書物だということにはなりません。神様は、古代人の表現や神話も使って、人に大切なことを示しておられるのかもしれません。

聖書にこう書いてあるといっても、解釈にはかなり幅があります。聖書の御言葉を引用し、まったく、正反対の主張だってできるのです。
有名なのは奴隷制です。かつてアメリカ南部ではアフリカから連行された黒人奴隷が酷使されていましたが、奴隷使用者のほとんどは白人のクリスチャンでした。聖書は、読みようで、奴隷制を肯定しているとも読めるんです。奴隷を使っていた人たちもクリスチャンでしたが、奴隷制に反対して奴隷解放を主張した人たちもクリスチャンでした。聖書の御言葉を使い、奴隷制を肯定することも、非難することもできるのです。戦争もそうです。聖書の御言葉を使い、戦争を肯定することも、非難することもできるのです。

旧約の律法は今も有効なのか、
豚肉を食べることの是非は、
真の安息日は土曜か日曜か、
死刑は認められるのか、
女性は教会で発言していいのか、
女性は牧師になれるのか、
幼児洗礼は有効な洗礼なのか、
教会は同性愛者にどう接すべきか・・・・。

聖書を引用して正反対の主張ができる例は、いくらでも挙げられます。

また、かつて当然のように言われた聖書の解釈が、ある人々を苦しめてきた例もあります。
よく知られているとおり、旧約聖書には、神は人を「男と女に創造された」とあります。ここから、人は男か女かどちらかだとされ、男でなければ女、女でなければ男と、当然のように考えられてきました。性同一性障害などの障害を持つ人たちは、クリスチャンたちから奇異な目で見られ、苦しんだのです。性同一性障害の人が教会に相談したら「汚らわしいと言われた」という証言もあります。かつての神学校では、性的少数者にどう対応すべきかの教育がまったくなかったのでしょう。
また、長い間、聖書は同性愛を厳禁していると解釈されてきました。今もそう考えている人も少なくありません。1980年代に私がこの耳で聞いた話ですが、比較的リベラルな教会の人さえ「同性愛は病気ですから、治療を受けて治すべきです」と言っていました。また、ある「福音派」の牧師は、「同性愛は大罪です。同性愛を改めなければ地獄に行きます」と言っていました。生まれつきの性的指向ゆえに責められるのは、生まれつきの盲人が責められるような話です。

さすがに今は、多くの教会が性的少数者の苦しみに寄り添う姿勢を示してはいますが、中には、過去の差別と同じような差別を繰り返しているクリスチャンもいます。

聖書を解釈するのは人間です。
聖書にこう書いてあるからこうだというのは、その教派や、その教会や、その牧師の、その時代の主張に過ぎません。別の教派の教会に行けば、別の牧師から、かなり違う説明を聞くでしょう。まったく正反対の話を聞くかもしれません。ある程度学んだ人なら「聖書的にはこうです」なんて、簡単に断定しません。

聖書が描く死後の世界や終末論も、実は、よくわかりません。
旧約の人たちは死後の世界についてあまり語っていません。旧約だけを読めば、死後の世界は存在しないと考えることもできます。
新約も、死後や終末については、読みようによってどうにでも読めるような表現です。さまざまな解釈が成り立つ新約の御言葉を、ある特定の解釈で、人は死んだらこうなるとか、世の終わりはこうだとか断言し、審きの恐怖で人を脅すことが、はたして、正しい聖書信仰なのでしょうか。そして、日々、恐怖におびえて生きることが、クリスチャンにふさわしい人生なのでしょうか。

福音を信じてイエス様に従うというのは、喜びではないのですか。
よくわからない死後や終末の記述をこうだと断定し、おびえて生きるべきではありません。イエス様のメッセージに従いこの世の人生を誠実に生きることのほうが、ずっと大切です。

イエス様は、権力を持つ人たちに厳しい非難の言葉を向けておられます。しかし、一般の庶民に恐怖を与えて脅す箇所など一箇所もありません。イエス様の非難は、人を脅す牧師や教会のリーダーたちにこそ向けられるのではありませんか。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」というイエス様の御言葉はよく御存知でしょう。イエス様に向かって、「主よ、主よ」と言う者は、つまり、クリスチャンたちです。天の国に入るのは「父のみこころを行なう者」で、キリスト教の信者とは書いてありません。仏教徒、イスラム教徒、無神論者らが、「父のみこころを行なう者」として天の国に入るとき、イエス様に従わなかったクリスチャンたちは、イエス様から、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」(同7:23)と言われるのかもしれません。

ドイツの神学者カール・ラーナーの論文にもありますが、持って生まれた人間の良心に従って生きようとする人たちは、たとえその人が自分はキリスト教徒であるという自覚を持っていなくとも「知られざるキリスト者」とでも言うべき真のクリスチャンであり、神の救いの内にある、と考えることもできるのです。(カール・ラーナー「知られざるキリスト者」『日常と超越』所収 「無名のキリスト者」とも訳される)
この、良心に従って生きようとする人たちの中に、他宗教の人や無神論者もいる、という考えなのです。

人は、神によって、神の似姿として創造されました。神の似姿ですから、生まれつき、神から与えられた良心を持っています。この良心に従っているのなら、その人は、神に従っていると言えるのです。その人は無意識に「父のみこころを行なう者」となっているのです。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)と、聖書に書いてあります。神様が、全く可能性のないことをお望みになるはずはありません。神様はすべての人の救いを望んでおられるのですから、すべての人に救いのチャンスがあると考えるべきでしょう。その人が他宗教の信者でも、無神論者でも、あるいは、陰府に下った霊であっても。

私のことを万人救済論者だと言う人がいますが、違います。私は万人救済とは言っていません。
聖書の御言葉で人を脅し、支配し、コントロールするような人たちは、はたして、救いの中にいるのでしょうか。聖書を熟読しながらイエス様のメッセージに学ばないどころか、逆方向に進む人たちに、救いがあるのでしょうか。

あなたは、聖書66巻は神の御言葉だと教えられたでしょう。
仮に、聖書に書いてあることはすべて正しく、無誤無謬だとしますよ。
仮にそうだとしても、人間は無誤無謬ではありません。神様は全能であっても、人間は全能ではありませんから、神様の言葉を完全に理解する能力などないのです。私たち不完全な人間に、それはできないのです。
ということは、人間の聖書理解には常に誤謬がつきまとうと言えます。もちろん私自身も人間ですから、私の聖書理解だって、思い違いもあるかもしれません。ただ、福音書に記されたイエス様のメッセージが示している方向に向かおうとするなら、そう大きく外れはしないのではないかと思います。

いったい誰が、その聖書解釈は正しいと証明したり断定したりできますか。
もう一度言いますよ。人間の聖書理解には、常に誤謬がつきまとうのです。
誤謬かもしれないある種の聖書解釈に日々おびえ、そのおびえの中で一生を過ごすのが健全な信仰生活なのですか。

人はみな罪びとだといっても、それも含めて人間です。神様は、そういう限界を持つ私たちの限界を知りながら受け入れてくださるのです。

もう、おびえることはありません。
特定の教派の特定の聖書解釈を乗り越えましょう。

あなたのために祈ります。
全能の神があなたを強め、導いてくださいますように。
私たちの主、イエス・キリストの御名によって。
アーメン。

(伊藤一滴)

追記:前回もそうですが、これも創作です。「これは異端の信仰だ」なんて言うのは、なしですよ。架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作ですから。
ただし、私がこれまで直接聞いた話や読んだ話などをもとにしています。そして、上記はみな、キリスト教の中に実際にある見解です。創作と言っても、私が頭の中ででっち上げた話ではありません。

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