聖書と聖伝 プロテスタントとカトリックの発想の違い
プロテスタントとカトリックの発想の違いの例です。
学生の頃、キリスト教に関心を持つ学生らが集まって、いろいろな話をした中の話題の一つです。
無人島に漂着した一人の人がいたとする。
その島は温暖で、危険な獣もおらず、食糧も飲料水も十分にあった。
漂着した人は救助を待ちながら、することがなくて退屈していた。
そこに、防水の袋に入った聖書が流れ着いた。
その人は拾って、開けて、
暇だったから、ずっとこれを読んで過ごした。
その聖書は訳文だけで注も解説もなかった。
その人はキリスト教文化圏の出身ではなく、キリスト教についてほとんど何も知らなかった。教会の教えも伝統も何も知らず、ただ流れ着いた聖書を読んだ。
なかなか救助が来なかったから、旧約も新約も全部読み終えた。他に読む物がないので、繰り返して何度も読んだ。
何度も読むうち、その人は神様を信じるようになっていた。
さて、この人をクリスチャンと呼べるだろうか。
という話です。
いろいろな意見が出ましたが、プロテスタント信者の多数意見は、「この人は聖書を熟読しており、神様を信じているのだから当然クリスチャンだ」という感じでした。カトリック信者は、「この人は教会の教えを聞いておらず、洗礼も聖体も受けていないのだから、求道者ではあるが完全な信者とは言えない」という意見でした。
プロテスタントとカトリックの発想の違いを感じました。
正しいとか、正しくないとかではなく、そもそもの発想が違うのです。
プロテスタントもカトリックも、どちらも西方教会であり、違いより共通する面が多いと思うのですが、こういう話になると発想が違うのです。
プロテスタントは、主流派(リベラル)も福音派(保守)も、どちらも「信仰の論拠は聖書のみ」と考えます。この両者は多くの点で違っていますが、この点では一致しています。
カトリックは、聖書と教会を重んじ、教会が受け継いできた聖伝(Tradition)も信仰の論拠になるとしています。ですから、カトリックの考えでは「信仰の論拠は聖書と聖伝」となります。
そうしたことをカトリックの神父さんにお聞きしたら、「聖書も、もともとは聖伝が明文化されたものと言えます」とのことでした。(すべての神父さんがそうおっしゃるかどうかはわかりませんが。)
プロテスタント的には「信仰の論拠は聖書のみ」だから「聖書の神様を信じていればクリスチャン」なのでしょう。
無人島に漂着したこの人は洗礼を受けていません。一人しかいないのだから、洗礼を授ける人もいません。聖餐を受けることもできません。(もちろん、洗礼の有無や聖餐でクリスチャンかどうかの判別はできないという考えもあります。)
そして、この人は、聖書は熟読していますが、聖書に書かれていない教会の教えや伝統は何も知りません。
さて、この人は、「父と子と聖霊は三位一体の神である」と考えるようになるのでしょうか。
「信仰の論拠は聖書のみ」と思うのでしょうか。
「聖書は66巻」であり他に聖典はないと思うのでしょうか。(たまたま流れ着いたのが66巻の1冊本だが、続きの2冊目、3冊目もあるかもしれないと思うかもしれません。)
クリスマスは12月25日だから、前夜にお祝いしようと思うのでしょうか。
その年のイースターの日が分かるのでしょうか。
実は、プロテスタントもまた tradition(伝えられてきたもの)を受け継いでいるのです。
クリスマスやイースターはともかく、三位一体論などの教義に関する重要な tradition もあります。そうした tradition は教会で受け継がれてきたから知ることができるのであり、まったく知らない個人が、どんなに聖書を熟読しても、聖書のみから導き出すのは困難(あるいは不可能)な考えです。
私は、それはプロテスタントの「聖伝」ではないか、と思うのです。このプロテスタントの「聖伝」はカトリックと重なる部分もありますが、プロテスタント独自のものもあります。「信仰の論拠は聖書のみ」や「聖書は66巻」などは、プロテスタント独自の「聖伝」です。
プロテスタントがどんなに「信仰の論拠は聖書のみ」と主張しても、私の目には、「聖書と「聖伝」を論拠にしている」と見えるのです。だから駄目だと言うのではありません。自分たちも教会の tradition を受け継いでいるのに、聖伝(Tradition)を論拠にするカトリックを非難すべきではないと思うだけです。
(伊藤一滴)
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