何を、どう、信じるのか
以前書いた話を繰り返します。
「聖書を信じています」とか「イエス様を信じています」とか言っても、いったい何をどう信じるのか・・・・です。
「あなたは神を信じますか」と聞かれても、それは、神というものをどのように定義するかによるのです。あなたと私が全然違う神をイメージしながら、神を信じるも信じないもありません。
ただ、そう言っても、「神とは、人間の言葉で定義できるものだろうか」という思いもあります。そもそも神というものは、人間が、人間の言語で言い表すことができるものなのか、人間の思考の範疇に収まるものなのか、という思いです。
そこまで考えると、私は、神を信じるとか信じないとか、簡単に言えなくなります。
「あなたはクリスチャンですか」という問いもそうです。これも、そもそもキリスト教とは何かという定義を明確した上で、共通の認識がなければ答えようがありません。全然違う「キリスト教」をイメージしながら、信じるも信じないもないのです。
「あなたはクリスチャンですか」と私に聞く人は、自分が所属するキリスト教の教派や自分がこれまでに接してきたクリスチャンたちのイメージで聞いてくるようですが、私がそれにあてはまるかどうか、問う相手がイメージする教派の見解を知らなければ、私は答えようがないのです。
教会の歴史的沿革ではなく、考え方から大きく分ければ、リベラルな人たちと、保守的な人たちがいて、それぞれに、自分と異なる考えに対して寛容な人と不寛容な人がいるようです。これも、度合いはさまざまだし、言い分もさまざまで、これが同じキリスト教かと思うほど、言うことが食い違っていることもあります。私は別にどっちの派だからどうだとは言いませんが、どの派であれ、不寛容な人は好きになれません。信仰熱心と言われる人の中には、自分たちのグループの考えに固執することに熱心で、異なる立場の人たちに非常に不寛容で攻撃的な人もいます。教えを固く信じて自分を律しているつもりでしょうが、そうでない人をやたら責めるのです。私はキリスト教界に嫌なものを見てきました。
ここからは今日の話です。
「正しいキリスト教」とは何か?
先に書いた通りです。
「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言い、自分(たち)が容認できないくらい見解が違う場合には「異端派」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。
ですから、世には無数の「正しいキリスト教」があります。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/09/post-b3da.html
神は存在するのか、という話も、私の思いは変わりません。
神のように、客観的に存在を証明することができないものを認識の対象にできるのか、という思いがあります。
そして、認識の対象になると断定できないものを、そもそも「信じる」ことができるのか、という思いです。
人は、自分がまったく知らないものを信じることはできません。神を信じると言うなら、神について知っていることが前提になりますが、そう言う人は、いったい、神をどこまで知っているのでしょう。人はどこまで神を知ることができるのでしょう。
人間が知ることのできる範囲なんて、限られているのではないか、と思うのです。
神が存在するとしても、人間に解るのは、人間の思考の及ぶ範囲の神様です。それを人に伝えるのも、人間が、人間の言語でカバーできる範囲での表現です。
人間の思考や表現が絶対のものになるのでしょうか。
人間という有限な者が、絶対の思考に到達したり、人間の言語という有限なもので完全な表現をしたりできるのでしょうか。
神様がいるかどうかは別として、我々が聞いたり読んだり考えたりする神様は、人間の思考の及ぶ範囲の神様であり、人間の言語でカバーできる範囲で表現された神様なのです。
「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」
と、私は何度も言われました。
信仰があるとか、ないとか、そういう話ではなくて、私は理屈として矛盾なく考えたいのです。
全員ではありませんが「信仰を持つ」と言う人たちの中に、理屈の通らないことを信じている人が少なからずいます。
「信仰は理屈ではありません」と言われたこともありますが、誰も「信仰は理屈である」なんて言ってません。
信仰は、科学的な証明が求められるわけではありませんが、少なくとも理屈の通る説明は求められるでしょう。それができないなら、迷信、あるいは狂信と変わりません。
違う目盛りのモノサシを持って、「あなたの寸法は違っています」などと互いに言い合っても仕方がないのです。
目盛りのどこがどう違うのか、相手はなぜその目盛りを採用したのか、どうすれば対話できるのか、対話は不可能なのか、その目盛りを使うことで多くの良い実を結んでいるのか、それとも悪い実を結んでいるのか、何も結んでいないのか、そういったことから話を始めないと。
(伊藤一滴)
補足説明
以前、こう書きました。
何が正しいキリスト教なのでしょう。
過去の歴史を見てください。
正しいキリスト教とされるのはつまり、多数を占めた側です。
よく言われます。
「異端派が多数を占めることはない。なぜなら誰も多数を占めた側を異端派とは言わないから」
と。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/11/post-ef6a.html
これは、社会的に見た場合の話です。
個人では、
「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
私が矛盾したことを言っているわけではなくて、社会の側から見た場合と、個人の側から見た場合の違いです。
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