つつましく生きていきたい 空の鳥のように
聖書を引用します。
「 6:26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 6:27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(「新約聖書」新改訳 初版 マタイの福音書)
最初に読んだのは小学校3年生のときですが、小学3年でも、こうした言葉に心を打たれました。(引用は、最初に読んだ新改訳初版)
その数年後だと思いますが、テレビのロードショーで、映画「ブラザーサン シスタームーン」をやってたんで、見てました。
その中で、またこの言葉に出会いました。アシジのフランチェスコ(フランシスコ)はローマ教皇に謁見し、教皇の前でこの箇所を引用するのです。
当時小学生だった私が、あの映画をどれだけ理解できたんだか。でも、「一修道士のフランチェスコが教会のうんと偉い人に向かって説教するようなことを言っちゃった、ありゃ~、まずい」ってわかって見てたんだと思います。
いい映画でしたね。
見てたら父に叱られました。そんな、特定の宗教に偏った作品を見るのはよくないって。うちは宗教嫌いで、そういう家でした。
あの頃、家族に見つからないよう隠れて聖書を読んでいました。
この「空の鳥を見よ」は、有名な箇所ですね。文学作品やいろんな引用に出てきます。
だから、日本のようなクリスチャン人口が1%程度の国でも広く知られています。キリスト教文化圏の人なら、ほとんどみんな知っていることでしょう。
でもそのわりに、この精神の実践者は少ないようです。
多くの人が、明日のことを思いわずらいながら生きています。
修道者や僧侶といった人ならともかく、みんなが蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしなければ、社会が成り立たなくなってしまいます。誰かはそうした作業をしないといけません。祈りに専念できる人たちがいるのは、誰かが生産をしたり管理の事務をしたりして、社会を維持しているからです。
それはわかっていますし、自分も労働するのを否定したりしませんが、明日のことを思いわずらわない暮らしに憧れます。
空の鳥は、この地球上からささやかな食物を得て、自由に空を飛んでいます。必要以上に食べたりしません。他の国と争ったりもしません。
私もそんな風に、地上からささやかな恵みの糧を得て、平和に、つつましく暮らしていきたいと思いました。
そもそも、人はなぜ競い合わないといけないのか。
なぜ、どんどん開発を進め、どこまでも発展を目ざさないといけないのか。
それが過度になっても、止まりません。
そうやって人類全体が幸せに向かっているのならともかく、多くの人は余裕がなくて、疲れて、それでもゴールのないマラソンのようなことをしています。
つつましく生きていきたい。
もし、イエスが「天の父」と呼んだ神様が本当におられるならば、鳥のようにつつましく生きても、神様は人を養ってくださるのでしょう。
自然の恵みの中で、労働と、読書と、思索と、沈黙と、祈りと、対話と・・・・。
余分なものをそぎ落としていけば、人の必要は、そう多くないのかもしれません。
アーミッシュのような質素な暮らしが私の憧れです。
つつましく生きていきたい。本気でそう思います。
(伊藤一滴)
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