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もしイエスが「ブルトマン著作集」を読んだら

イエスという人は本当にいました。
彼は、紀元前6年~前4年頃にユダヤ人の子としてパレスチナに生まれ、後に洗礼を受け、宣教活動をし、紀元後30年頃に十字架にはりつけにされて処刑されました。
その後イエスは復活したと信じられ、彼はキリストだと信じられ、キリスト教信仰が生じました。

我々にわかるのは、それくらいです。

イエスの言葉や行ないが起源となり、そんなことをイエスが考えたのだろうかいうくらいに発展し、後にキリスト教の高度な思想体系ができました。
ごく初期のキリスト信者たちの中にはさまざまな意見があって、さまざまな文書もあったようですが、その中で、正統派が勝利しました。というより、勝利した側が正統派となったのです。誰も、勝った側、多数を占めた側を異端派とは言いません。勝てば官軍なのは宗教も同じです。
新約聖書27巻は4世紀の末に正統派が公認した文書です。イエスが生きて活動した時代から350年以上経っていました。

イエスは、新約聖書の書簡や黙示録に書いてあるようなことを考えていたのでしょうか。
イエスの頭の中に、キリスト教神学の思想体系のようなものがあったのでしょうか。
おそらくイエス自身は、素朴に神を信じ、神を父と呼び、神の国を説く古代の人の一人だったのでしょう。

ありえない仮定ですが、もしイエスが「ブルトマン著作集」を読んだら、どう思うのだろうと想像してみます。賛成するでしょうか。
賛成するしない以前に、ブルトマンが前提にした20世紀の世界観が通じないだろうと思います。
イエスは、地球は丸いとか、大気圏外へ行っても天界はないとか、地面を掘っても下界はないとか、知っていたのでしょうか。彼は、近代的な教育を受けていません。現代の世界像、宇宙像を何も教わっていないのです。

「イエス様は神様ですから、習わなくてもすべてを御存知です」などというのは宗教の話です。
私が言うのは、そういう宗教的な考えを抜きにして、人間として生きたイエスはどうなのか、という話です。

イエス自身が理解できないかもしれないような、そんな神学を使わないと、キリスト教は未来に進めなくなってしまったのでしょうか。それほど現代は、さまざまなことが解明され、あらゆる面で高度になり、複雑になってしまったのでしょうか。

そして、そもそも、キリスト教というものは、イエスが教えようとした教えなのでしょうか。

「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」と、これまで私は何度も言われました。私にそう言ってくる人たちは、どうも、イエスに従っているようには見えませんでした。「聖書に書いてあることを書いてある通りに信じます」と言う、どう見ても、独善的、排他的、不寛容、攻撃的な「クリスチャン」たちでした。
そういう「クリスチャン」たちの「信仰」って何でしょう。古代の世界観をそのまま信じることが「信仰」なのでしょうか。それなら地球が丸いことも疑わないといけなくなります。地球が丸いことは認め、生物の進化は否定する、みたいな、そんなご都合主義がありますか。
科学と非科学の間を行ったり来たり、聖書に書いてあることと書いてないことの間を行ったり来たり、そうしてパッチワークのように話をつないで、聖書には一切矛盾はないとして「聖書の権威」を主張する人たちです。そういう主張を「信仰」と呼ぶのであれば、私には、まったく「信仰」はありません。

深刻なカルト化は、聖書に矛盾はないとしてやたら「聖書の権威」を主張する「教会」で起きています。ほとんどが、福音派と名乗る教会で起きています。リベラルな立場のプロテスタント教会やカトリック教会のカルト化は聞いたことがありません。

苦しみの中にあった人たちに手を差し伸べたイエス、神とは天の父なのです、神の国とはあなた方の内にあるのですと教えたイエス、そのイエスに従って生きてゆくことを信仰と言うのなら、そういう意味で、私は信仰を持って生きていきたいと思います。

私は、まだまだ、思索の途中です。

(伊藤一滴)

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