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内村鑑三『後世への最大遺物』を読む2

私は、未来に何を残せるのでしょう?

内村鑑三の『後世への最大遺物』を読みながら、考えました。冬の読書です。

江戸時代の頼山陽(らい・さんよう)は、13歳か14歳くらいで「千載列青史(千年後の歴史書に自分の名をつらねたい)」と、すごいことを言いました。千年後のことはわかりませんが、後に彼は、大著、『日本外史』(※)を著し、世に影響を与えました。

※外史というのは、官庁に属さない外の人(民間人)が書いた歴史という意味だそうです。公的な歴史書ではなく、政権の意向にも左右されることのない歴史書です。

『日本外史』は、歴史の記述が正確でない点がいくつもあるとか、後の皇国史観につながったとか、批判もありますし、内村鑑三も全面賛成しているわけではないのですが、この本は売れに売れ、世に影響を与えました。山陽自身は1832年に亡くなっているので、戊辰戦争も明治政府も知りませんが、彼の思想は幕藩体制を終わらせる一助となったとも言われています。

三陽は、思想を遺物として後世に残し、それが後の時代につながった、とも言えます。「官軍」と称した側の主張ややり方がみな正しかったわけではありませんが、幕藩体制は終わり、日本は、いろいろとかかえながらも、近代化してゆきました。


お金を残した人もいます。金銭なんてと軽蔑する人もいるでしょうが、金銭そのものが賤しいのではなく、何に使うのかです。
たくさんのお金を蓄えて、そのお金を多くの人たちの教育や福祉などのために使うなら、お金は貴いものになるのです。
私利私欲のためにお金を蓄えても、死んであの世に持っていける訳ではないし、遺族が骨肉の争いをしたりして、賤しいお金になるだけでしょう。
これもその人の思想、人生観とつながります。お金を何に使うのか、その人の考えです。

土木工事などの事業を残した人もいます。たとえば大規模な水路工事をして農業用水を引き、それが、その工事を実施した人が亡くなったあとも、ずっと田畑の役に立つのなら、貴い遺物を残したことになります。もし、後の時代に使わない水路になったとしても、過去に人々のためにこういう事業をした人がいたのだという事実が、後の人を励ますことでしょう。
それだって、お金があるから工事ができるのだろうし、人々の役に立つことにお金を使いたいという、その人の考えがあってのことです。

思想が、お金や事業に関連します。思想があってお金が生きる、事業が生きるとも言えます。

内村鑑三が後世への遺物として例にあげる文学や教育だって、思想あっての文学であり教育です。

(内村は、思想を述べた書を文学と考えるから、源氏物語は文学じゃない、という話になるんです。色恋の話など文学じゃないって。この話、けっこう有名なのか、妻も息子も知ってました。でもそれ、文学という言葉をどう定義するかでしょう。)

私は、ある学校で建築構法や構造力学を教えているのですが、「建築は本来こうあるべきだと思いますし、私はこうあってほしいと思います。皆さんはどう思いますか?」といった話もします。未来を生きる人たちに伝えたいことがあるし、考えてほしいのです。
私自身、過去の建築物から学んでいます。それを建てた人がもう亡くなっていることが多いのですが・・・・。

このように、いろいろな後世への遺物があるわけですが、内村は、誰にでも残せるものではない、害になることもある、といいます。

たしかに、ゆがんだ思想による事業や教育は、たいへんな問題を引き起こすかもしれません。

内村鑑三によれば、「誰にも残すことのできる遺物で、利益ばかりあって害のない遺物」は「勇ましい高尚なる生涯」だそうです。
なるほど、生き方ですね。

勇ましいとか、高尚とか、抽象的な感じがしますけれど、要は、信念を持って、良心に従い、堂々と生きることでしょう。誰にもこびず、へつらわず、それこそ、疾風に勁草を知るが如く、堂々と生きることでしょう。

そのために必要なのは、広い視野、学び、対話、思索、自己の客観化、労働、沈黙、祈り・・・・などなど。いろいろな体験を重ね、経験を積むことも必要でしょう。

さて、私は、未来に何を残せるのでしょう?

(一滴)

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