福音派と原理主義者の違い(補足)
以前、『エヴァンジェリカルズ』という本を読んで福音派と原理主義者の違いについて思うことを書きました。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2016/12/post-7305.html
以下は、自分なりの補足です。
福音派は聖書の教えに忠実であろうとするが、原理主義者は忠実ではない。原理主義者は「聖書は一字一句に至るまで誤りなき神の言葉である、だから、一切矛盾はない」という強い先入観を持っていて、聖書に忠実であるよりこの先入観を守ることが大事なのだ。
※原理主義者=根本主義者、ファンダメンタリスト、特に極端なのはカルト。
実際は、聖書には矛盾していると思われる記述が多数見られるが、原理主義者は、矛盾はないということにするために、歴史も、科学も、聖書までも、平気でねじ曲げてゆく。
彼らは自分たちの先入観に忠実で、聖書そのものに忠実でない。
私が接してきた福音派の人たちは神を信じる人たちで、聖書を大切にしており、意図的に聖書をねじ曲げたりしなかった。たとえ聖書の記述に矛盾を感じても、「いつか神様が明らかにしてくださいます」と言っていた。つつましく、他者に優しかった。リベラル派やカトリックを悪く言わず、他の宗教を悪く言わず、対話を拒まなかった。私も福音派の人たちからお世話になり、助けられ、感謝している。
原理主義者やカルトも「福音派」と自称するが、優しい福音派の人たちと違い、不遜で、居丈高で、恫喝的だ。自分たちの先入観を「真理」として他者との対話を拒み、他宗教や自分たち以外のキリスト教を小馬鹿にしてうすら笑いを浮かべたり、むきになって食ってかかってきたりする。福音書に出てくるイエスや、イエスに従った人たちの姿勢とはまるで違う。目を覚ましてもらいたい。リベラルやカトリックになれとは言わないが、自称「福音派」の原理主義者やカルトではなく、本当の福音派になってもらいたい。
福音派は神様を信じる人たちだが、原理主義者は「聖書に矛盾はないという自分たちの先入観」を信じている人たちだ。
聖書が証しする神様を信じているなら聖書をねじ曲げるなんて出来ないだろうに、矛盾はないということにするために、平気で文脈を無視して引用するし曲解もする。「わかりやすい翻訳」と称して原文の改竄までする。それが神を畏れる人のやることか。聖書よりも、神様よりも、自分たちの先入観が上にあるようだ。彼らの神様は、彼らの先入観に合致するように頭の中で作り変えられた神様のように思える(つまり偶像)。
原理主義者は、聖書を文字通り信じているのではない。彼らは聖書に書かれていない話を次々に創作する。
たとえば、イエスを裏切ったユダが首を吊ったらロープが切れたとか、死体は谷に捨てられたとか、どこにも書かれていない話を作ってゆく。(ユダの死について、首を吊って死んだ話(マタイ)と、転落して腹が裂けて内臓がみな流れ出したという話(使徒行伝)がある。)
いちいちあげないが、こうした例は多い。
(関心のある方はネットで公開されている佐倉哲氏の「聖書の間違い」をぜひご覧いただきたい。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html
佐倉哲氏に対する「反論」のほとんどは原理主義者の見解のようで、私が見た限り、説得力のある反論は一つもなかった。だいたい、一般のクリスチャンが佐倉氏に反論するだろうか。リベラル派やカトリックからの反論は一つも見当たらなかった。)
進化論を否定するときには、聖書にはこう書いてあるからこうだとがんばるのに、都合によってはまったく書いてないことを言い張る。「書いてあること」と「書いてないこと」を、都合よくまぜこぜにして、矛盾に思えることを無理につないでゆく。
福音派は、矛盾に思える点は神様にゆだねている。原理主義者は「矛盾はない」と言い張り、矛盾がないと思えるように自分たちの言葉でつないで聖書を工作する。つまり「聖書は一字一句に至るまで誤りなき神の言葉である」などど言いながら、文字通り信じていない。矛盾がないことが何より大事で、人間の理解を超えたことを神様にゆだねる謙虚さを感じない。
原理主義者も自分たちのことを「クリスチャン」であるとし、「福音派」と自称している。中には福音派と原理主義の中間のような人もいるが、そもそも福音派と原理主義者は、向かっている方向が違う。当然、人に対する態度も違う。
気をつけていないと、福音派の信者が原理主義化することがある。これが極端になったものがカルトである。
カルトには共通の特徴があり、金銭問題、異性問題、教祖的人物の君臨(先生と呼ばれていたりする)、パワハラやセクハラ、恐怖による支配、マインドコントロールなどが起きる。悪質な性犯罪や性犯罪の隠蔽が起きることもある。それはもう、キリスト教とは別のカルト宗教になっている。
これが教会のカルト化である。そのほとんどが福音派(または聖霊派)と自称する原理主義者の「教会」で起こる。穏健な福音派にとって迷惑な話だ。
原理主義者のすべてがカルト化するわけではないが、原理主義はカルトの一歩手前の段階と言える。
(伊藤一滴)
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