なぜ原理主義やカルトのことを書いたのか
なんで原理主義やカルトの話が続いたのかと言うと・・・・。
田川建三訳の「新約聖書」本文が1冊の本になって出る。
田川建三さんにお会いしたときのことを思い出した。
田川さんは、キリスト教を装うカルトが各地の大学などで活動していることに、注意を呼びかけていた。
私が最初に行った山形県内の「教会」も、原理主義(あるいはカルト)ではないかと疑われる自称「福音派」、自称「正統派」だった。
大学生になって、愛知県内にいたとき、聖書カルトらしき人たちから議論を吹っ掛けられて、嫌な目にあった。それも、一方的に自分たちの主張をまくしたてる人たちで、最初に行った「教会」とよく似ていた。
一方は山形県の田舎、一方は愛知県の田舎で、なぜ、よく似た主張をする人がいるのか、不思議だった。あとから東京で暮らしたときも、一部によく似た人がいた。どうも、原理主義(あるいはカルト)は全国にいるようだ。
何度も聞いたから、彼らの言い分を覚えてしまった(以前「聖書カルト」「聖書カルト2」に書いた通り)。でも、なぜ人は原理主義やカルトを作り出し、信じ込み、それを維持してしまうのか、説明できずにいた。
最近、たまたまネット上で「metanoiaxの日記」を読んでいて、執筆者さんが、「カルト化した教会」を必要とする人々がいるからなくならないとご指摘をなさっているのを見て、これだ、と思った。(「metanoiaxの日記」2018-2-26)
同じ執筆者による「悪口満載のお説教をする牧師達(「metanoiaxの日記」2017-06-23 )も、私が会った人たちにそっくりで、一瞬、同じ牧師かと思うくらいだった。 あの人たちだ。不寛容、排他的、独善的、攻撃的なあの人たちだ。山形県にいた、愛知県にいた、東京にもいた、ネット上にもいる、そっくりだ。
答えが出た。
40数年間の疑問が解けた。
「カルト化した教会」を必要とするくらい傷ついたり、心を病んだりしている人がいる。
気の毒な話だけれど、アルコール依存やパチンコ依存のように、カルト信仰依存になってゆく人がいる。しかも当人は、それが正しいキリスト教だと思い込んでいる。
福音派が極端になれば原理主義に陥り、原理主義者の中にカルト化していく人たちがいる。
原理主義化の危険は、福音派が持つ宿命なのかもしれない。
原理主義やカルトの「信仰」は傷の痛みを麻痺させるだけで、傷を癒してくれない。麻痺させているうちに傷はますます悪化する。それは信仰というより病的な思い込みだ。
早く目を覚まさないと。
(参照「平和島」http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/11/post-e773.html)
それで私は書きまくった。
(一滴)
コメント