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暴力、非暴力

古くから今に至るまで、さまざまな暴力があり、残念なことに今も暴力が絶えません。しかし、非暴力の主張もまた古くからありました。しかも、非暴力論には時代を超えた共通点があります。

思いつくまま挙げてみても、イエス・キリスト、法然、ガンジーなど、暴力に対して暴力で報いることをしませんでした。時代も場所も宗教的な背景も違いますが、非暴力は共通です。
こうした人たちは、暴力を使えば相手も暴力を使い、それを封じるためにまた暴力を使うという悪循環に陥り、止まらなくなることに気づいていたのでしょう。
エラスムス、カント、トルストイ、キング牧師など、他にもいますが、平和的な手段で物事を解決すべきだと訴えた識者はたくさんいます。

非暴力を大原則とするのは軟弱な態度でしょうか? 私は、上記のような非暴力論者のほうが勇敢であったと思います。いつの時代も、弱い犬ほどよく吼えるのです。

暴力には連鎖してゆく性質があります。
やられたら、やりかえす。
自分がやられたら、他者にやる。相手への仕返しもありますが、「他者」は自分に暴力を振るった相手とは限らず、自分がされたように他の誰かにやるのです。その場合も、もっともらしい理由をつけて暴力を正当化します。
連鎖が止まりません。

ときに、暴力や暴力的体質は、自衛、防衛と呼ばれたり、抑止力と呼ばれたもりします。

銃で我が身を守ろうとする発想は、いわゆる抑止力と同じです。相手が銃を持っているから、こっちも持たないといけない。相手は強力な銃を持っているから、こっちはもっと強力な銃で武装しなければならない。相手は多くの銃を持っているから、こっちはもっともっと多く持たないといけない。
これも止まりません。
暮らしが貧しかろうが、精神的に苦しかろうが、大切なのは武装です。威嚇です。

強力な武器が発明される以前から、暴力は互いを不幸にするだけだと気づいた人もいました。上記のような賢人たちです。こうした賢人の教えに賛同した人もいたでしょうが、まったく理解しない人も、不都合に思った人もいました。

対立があっても、多くの場合、話し合いの余地があるはずです。
話し合いを拒み、武器の製造や販売や使用を「公共事業」にするのは愚かです。
たとえその「公共事業」で経済が活性化するにしても、それは「剣を取る者は剣で滅ぶ」道です。外国の戦争や紛争で儲かるからいい、というのであれば、単なる民族エゴです。

自分たちの立場や考えに固執せず、相手の側からはどうなのかを考え、互いに話し合うなら、暴力の応酬にならずに済むことも多いでしょう。

抜け出せない貧困や、差別、歪んだイデオロギー、大国による経済的な支配などが、暴力や暴力容認につながってゆくことがあります。そうした場合、その人たちの言い分を聞かずに力ずくで(たとえば「テロとの戦い」で)封じ込めても問題の解決にはなりません。それは、やられたら、やりかえすという、暴力の連鎖にしかなりません。解決どころか、仕返しは巧妙になることでしょう。力で抑え込むより先に、話し合いの余地があるはずです。

ただし、こっちの話を聞こうとせずに一方的に暴力で向かってくる相手にどう対処すべきか、という問題は残ります。
話し合いの余地があるのは、話し合える相手だからです。
まったく聞く耳を持たずに暴力で向かってくる相手をどうすればいいのか、です。
そこまで追い詰めた側も悪いのですが、追い詰められた側が正常な判断力を失って向かってきたらどうするのか。あるいは、何の落ち度もない無辜の市民に、いきなり暴力的に向かって来る者がいたらどうすればいいのか。これが国家単位で起きれば侵略です。
放っておけば被害が出ます。逃げろと言われても、逃げられない状況かもしれません。自分だけでなく、まわりもやられるかもしれません。それでも、非暴力に徹するべきなのでしょうか。

ここに非暴力論の弱点があるように思えます。
相手を追い詰めないというのは、理屈としてはそうですが、すでに追い詰められ暴走している者が暴力で向かってきたらどうするのか。あるいは、無辜の市民に暴力で襲いかかる者(場合によっては侵略者)に対してどうするのか。その者が他国の軍隊やゲリラや国際的なテロ組織なら、もう、一国の警察力で抑えられる範囲を越えています。

私は、大原則として、どんな問題も話し合うべきだ、非暴力で解決をはかるべきだと考えますが、対話を拒む相手が向かってきた場合の正当防衛まで否定はできません。何の落ち度もない人に向かってくる相手に反撃してはいけないとは言えません。しかし、これはなかなか難しいことなのです。
歴史の中では、「正当防衛」という言葉が侵略の口実に使われたこともありました。
客観的な正当防衛とは何か、というのは、なかなか難しいのです。
場合によっては、暴力に訴えるほど相手を追い詰めておきながら、それを暴力で封じ込めて「正当防衛」を主張することだってあるかも知れません。

護身術の武道であれ、国防のための武器の使用であれ、実力行使はどうしてもやむを得ない場合の最後の手段だと肝に銘じておくべきでしょう。暴力の連鎖とならないために。

非暴力論の「弱点」をどう克服するのか、これは難しい問題であり、私も、簡単には答えられません。でも、たとえ「弱点」があっても、非暴力が大原則なのだという理想は持ち続けていきたいです。

なお、暴力や暴力的体質は、教育、指導、しつけなどと呼ばれることもあると付け加えておきましょう。
(伊藤一滴)

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