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「いと小さき者の一人」に

「これら、いと小さき者の一人にしたのは、すなわち私にしたのである」という、新約聖書に記されたイエス・キリストの言葉を、マザー・テレサはよく引用しておられたそうですが、シスター渡辺も講演の中でこの言葉を引用なさっていました。(「マタイによる福音書」25:40)

聖書には「いと小さき者」として、空腹の人、渇いた人、旅行中の人、衣服のない人、獄中の人が挙げられています。イエスはこうした人たちを「私の兄弟」と呼び、「これら、いと小さき者の一人にしたのは、すなわち私にしたのである」と言うのです。現代の感覚だと、旅行中の人も入っているのは意外な感じがしますが、電車や飛行機や自動車はもちろん、電話などの通信手段もなく、あらかじめ宿を予約することも出来なかったイエスの時代、何らかの事情で長距離を移動する旅は、危険で困難なものだったのでしょう。

いま困難な状況にある人に手を差し伸べるのは、イエス・キリストに手を差し伸べるのと同じだと考えれば、そうした人たちをさげすむことはありません。キリストを前にして優越感などないからです。
こうした姿勢が、社会的弱者の側に立って活動する人たちを世に送り続けてきたキリスト教の強さなのだろう思います。

だいぶ前ですが、私はこんなことを書きました。

「本来みんなで少しずつ負うべき重荷を、ある人たちが集中して負ってしまっている」、もしかすると「あの人が私にかわって重荷を負ったのかもしれない」、そういう認識に立てば、困難にある人をさげすむことなく、もっと相互扶助的に、共生をめざす方向に、ものごとを考えていけるのではないでしょうか。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2006/03/post_991c.html

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2006/03/post_182d.html

妻から言われて納得したのです。
そのとき、若き前田美恵子の言葉を思ったのも、あのとき書いた通りです。

 なぜ私たちでなくてあなたが?
 あなたは代って下さったのだ、
 (前田美恵子「癩者に 一九四三・夏」)

この「代って下さった」という「あなた」を、重い病の人だけでなく、もっと広く考えるなら、どんな「あなた」をもさげすむことはなくなるわけです。

私自身の至らなさは承知の上で言いますが、人は、お互いのことを考え、相手を大切にし、互いに助け合うよう造られた者ではないかと思います。助け合う中で、共に向上できたらいちばんいいと思うのです。

マザー・テレサは、人はこうあるべきだという道を、自ら示してくださったのでしょう。
みんながマザー・テレサになれるわけではありませんが、各自、与えられたそれぞれの場で、人としてあるべき姿に近づいていけたらいいと思うのです。

もう1点、補足です。前回、これも私自身の至らなさは承知の上で、愛されることと愛することの大切さを書きました。
では、愛を知らずに育った人はどうすればいいのかと問われそうですが、遅すぎるというのはないと思います。もちろん、遅くないほうがいいでしょうが、今さらもう遅い、今さら愛されても愛しても仕方がないなんて、ないと思います。マザー・テレサは死にかけた人にも愛を注ぎました。たとえあとは死ぬだけだとしても、愛に遅すぎはないと思います。
(伊藤一滴)

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