マザー・テレサのこと
1984年、私は愛知県にいました。社会福祉学科の学生で、1年生でした。
来日されたマザー・テレサが名古屋でも講演するというので、友人たちと会場に行きました。当時住んでいた愛知県の知多半島の美浜町から名鉄に乗って名古屋市に出て、電車を乗り換えて会場に着いたときには、もう満員で、入れませんでした。まだ開演まで時間があったのですが、入れない人たちが大勢外にいました。新約聖書に出てくる、イエスの周りに集まってきた民衆みたいでした。
しばらくして、外にいる私たちの目の前を、マザー・テレサが数人のシスターらと共に歩いて行かれました。歓声と拍手が起きました。
マザーは小柄な老婦人でした。周りの日本人と比べても小柄でした。
やがて講演が始まりました。
私たちは会場の外に取り付けられたスピーカーから聞こえてくるマザーの声と同時通訳の声を聞きました。
話の内容は、命の大切さでした。マザーは、英語で、ゆっくりと、すべての命の大切さを説きました。愛し愛されることがどれほど大事かを説きました。
マザーの話は、最初から最後まで命と愛の話でした。
あまり知られていませんが、マザー・テレサの父は建設業の経営をしながら他の商いも手がける実業家でした。現在のマケドニアがトルコの支配下にあった時代、民族解放運動にも参加し、その政治的な活動のために、対立する勢力から毒を盛られたのではないかとも言われています。ある夜、父は、もうろうとした状態で自宅に運ばれ、たくさん血を吐いたのだそうです。9歳だったゴンジャ(後のマザー・テレサ)は、司祭を呼びに教会に走りました。たまたまその夜、司祭は不在で、ゴンジャは駅に行けば司祭がいるかもしれないと思い、教会から駅に走ったそうです。所属教会の司祭はいませんでしたが、別の司祭を見つけ、見も知らぬ人でしたが、事情を言って家まで来てもらったのだそうです。まったく知らない司祭から終油を受け、父は死にました。医者を呼ぶより先に司祭を呼びに行ったのは、もう誰が見ても助かりそうにない状態だったからでしょうか。救急車も何もなかった1919年のマケドニアです。
私は、この時のことが、マザー・テレサのその後に影響を与えたのではないかと思います。
マザー・テレサは自分の家族について多くを語らなかったそうですが、マザーにしてみれば、すべての人が父であり、母であり、兄弟姉妹であり、子であったからでしょう。
のちに教育、福祉、宗教、その他の分野で活躍した人の中に、小さいときに父または母を、あるいは両方を失ったという人が少なからずいます。有名な人でなくとも、「いい人」と言われる人の中に、とても不幸な体験をしてつらい目にあった人が少なからずいます。逆境がその人を磨き、他者を思う人にしたのかもしれません。でも、みんながそうなるわけでもありません。
その違いは、一概には言えませんが、他者を大切にする人たちは、自分自身が親や周りから愛された経験を持ち、人生について熟考する時間や場があったのかもしれません。
愛されること、愛すること、これは何にも勝る宝だと思います。
(伊藤一滴)
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