渡辺和子氏のこと
有名な話ですが、渡辺和子氏の父・渡辺錠太郎氏は1936年の二・二六事件で殺害されています。錠太郎氏は陸軍の幹部で、陸軍の教育総監を務めていました。貧しい家に生まれ、苦労して軍の幹部になった話は、本やネットの記事で紹介されています。武官としてヨーロッパに駐在した経験もあり、視野の広いリベラル派、教養人で、戦争には批判的な人だったようです。戦前の軍の幹部の中にはそんな人もいたのです。
二・二六事件の日の早朝、当時9歳だった渡辺和子氏は自宅で父と同じ部屋に寝ていたそうです。銃を持った将校らが部屋に乱入し、父は幼い娘をかばうようにして何十発も撃たれました。人を1人殺すのに何十発も撃つ必要はなく、もう死んでいる人に向かって撃ち続けたのでしょう。ひどいものです。ウィキペディアには「機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散った」と書いてあります。それが、当時9歳の渡辺和子氏の1メートルくらい前で起きたのでした。
渡辺和子氏はキリスト教徒の家に生まれたわけではなく、18歳のとき、自分からカトリックに入信したのだそうです。本人は語りませんでしたが、父親が目の前で惨殺されたことも、その後の彼女の生き方に影響を与えたのかもしれません。カトリック系女子大を卒業後に都内の大学の大学院に進み、博士課程を修了し、20代の末に修道女になりました。修道会に命じられてアメリカに留学し、博士号を得ました。大学教育に従事する人材の育成だったのでしょう。帰国後、東京のカトリック系の大学で教えていたそうですが、また修道会に命じられて岡山のノートルダム清心女子大学の教員になりました。それまで岡山には何の縁もなく、自分の意思とは無関係に人事を決められ、不慣れな土地で苦労し、東京に帰りたいと司祭に相談したこともあったそうです。ノートルダム清心女子大学の学長の逝去により、36歳で3代学長に就任しました。これも自分が望んだわけではなく、命じられての就任だったそうです。初代学長も2代学長も年配のアメリカ人女性で、日本人が学長になるのも、30代の人が学長になるのも初めてのことで、学内には若い学長へのやっかみもあったのか、ずいぶん苦労もなされたようです。キリスト信者の世界もきれいごとばかりではないようですね。
「不機嫌はダイオキシンのような毒です。不機嫌は毒を撒き散らし、相手に毒を与えることになります。たとえ嫌なことがあっても、相手が挨拶してくれなくとも、私の方からにっこり笑って挨拶するようにしています」
とおっしゃっていましたが、そうなれるまで、どれほどのご苦労があったのかと思います。
1984年にマザー・テレサが来日した際には同時通訳をなさったとのことですが、実は、1984年、私は名古屋の会場でマザー・テレサの講演を聞いています。あのときの同時通訳も渡辺和子先生だったのかもしれません。
偶然でしょうけれど、マザー・テレサも9歳で父を失っています。暗殺されたという説もあります。
マザー・テレサとシスター渡辺は、相通ずるものがあるようです。
(続く)
(伊藤一滴)
素敵な本の紹介ありがとうございます。
さっそく手元に届きました、驚いたことに売れている本なのですね。
このごろ、アマゾンのサイトをのぞく暇もないような、余裕のない日々だったことに、思わずため息です。
神様のそば近くあって、自分に与えられた分相応の働きができること、そのことだけを望んで生きていられる人は強いですね。
仕事でずいぶんつらいこともありますが、少々心乱れることはあっても、打ちのめされることはなくなりました。すべて自分がのぞんだこと、すべて自分のためになること、そんな風に思えるのは、神様の恵みですね。
・・・とはいえ、ゲンジツ生活では、マキの調達が死活問題です(笑)
投稿: ぱく | 2013-01-29 00:40
この地上での人生というのは、より完成された人間に近づいてゆくための試練の場ではないかと思うときがあります。渡辺和子氏は「神様は人が越えられない試練をお与えにはなりません」とはっきりおっしゃっていました。
渡辺氏だけでなく、日野原重明氏、瀬戸内寂聴氏、五木寛之氏といった方々も人気がありますが、それなりの年齢で、歴史の生き証人であり、宗教的な信念を持って発言を続けておられる方々です。時代がこうした方々を求めているのかもしれません。
(一滴)
投稿: 伊藤一滴 | 2013-02-04 10:50