怒りや憎しみについて思うこと
人間の行動が、怒りから出発することがあります。
それは解ります。
私自身、自分が受けた差別的な扱いに腹を立て、それがその後のものの考えや行動に影響しているようですから。
でも、ずっと怒りっぱなしだったわけではないです。それは、出発点の一つにはなりましたけれど・・・・。
一時的なものならばともかく、長期に亘る活動の根源が「怒り」でいいのだろうか、怒り続けながら何かを為して、より良いものが生まれるのだろうか、という思いがあります。
緊急かつ客観的に見てやむを得ないと思われる正当防衛も、世の中にはあるでしょうから、全ての暴力を前面的に否定するのは難しいのですが、怒りや憎しみを込め、暴力的手段で物事を解決しようとするやり方には賛成できません。
たとえ、その時は問題が解決したかのように見えても、暴力性は別な方に向いてゆき、新たな問題を生むのではないかと思えてならないのです。
そのいい例が社会主義革命です。暴力革命によって人民を解放したはずなのに、やがて社会主義政権の暴力性は、解放されたはずの人民に向かってゆきました。
学生の頃にこんなことを言うと、「ナンセンス」とか「自分は何もしない口実」とか「日和見」とか、いろいろ言われましたけれど。
怒りや憎しみを込めて物事を変えようとしたり、解決しようとしたりしてはいけない。これが私の信条の一つです。
(伊藤一滴)
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