「神を畏れ人を恐れず」
以前、あるキリスト教系の学校を見学させていただいたとき、「畏神不恐人」(神を畏れ、人を恐れず)という額が掲げてあるのを見せてもらいました。内村鑑三の書だそうです。
うまい字とは言えませんが、力強く黒々と書かれたその書を見ながら「畏神不恐人」という言葉の意味する価値を思いました。
この意味は、地上の金銭的な価値など超えています。
今、内村鑑三が生きていた時代になかったものが、世界を掻き乱しています。
核兵器、原子力発電、さまざまな有害化学物質、遺伝子組換え、その他もろもろ。自然にはありえないものを人間は作り出してきました。
人為的に作られたものによる世界の撹乱は、神に対する挑戦のように思えます。
神を畏れず、神の領域に踏み込み、結果、人類は自らの首を絞めていくように思えてなりません。
その一方で、人は、人間の組織、制度、規準に、管理に、がんじがらめにされています。
電子機器の急速な発達もあって「便利」になったはずなのに、人々は余裕を失い、疲れています。「便利」になれば、それに見合うスピードが求められ、「便利」さによって、以前なら何人もの人が協力しなければできなかったことが一人で出来るようになり、人と人との協力を断ち切られ、個々ばらばらにされ、疑心暗鬼さえ招いています。人が人を恐れる社会がやって来ました。
内村鑑三の時代以上に、「神を畏れずに、人が作った規律を恐れる」時代がやって来ました。多くの人が、場の空気とか、自分が属する集団の上層部の顔色とかをうかがいながら、自分を殺し、本当の自分を語らず、内なる良心の声を塞ぎ、仮面を被って今の状況に従っています。これが続けば、ますます自然環境や自然発生の共同体(助け合いの共同体)を破壊しながら、その人自身も破壊されていくのだろうと思います。
内村鑑三が書いた「畏神不恐人」(神を畏れ、人を恐れず)という言葉が、引用なのか、内村のオリジナルなのか、浅学の私には分かりませんが、どちらであれ、現代に通用する言葉です。この言葉、まったく古びないどころか、ますます輝きを増しているようです。
「畏神」は、信仰的なことだけでなくて、自然の中に人智を超えた働きを感じ、謙虚に、自然から学ぼうとする姿勢、自然の恵みに感謝して日々を生きる姿勢を含む、広い概念ではないかと思います。内村鑑三は「学ぶべきは天然」とも言っているのですから。
行き詰まりを感じる今の時代にあって、以前見せていただいた「畏神不恐人」の文字が、強烈に心に浮かんでくるのです。
(伊藤一滴)
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