日本木造住宅史概説(授業より)
今年の春からある学校の建築の非常勤講師になり、週に1回くらいですが、建築構法と構造力学を教えてきました。
以下は、建築構法の授業で、私が話したことを文字に起こしたものです。建築を学ぶ生徒を対象にした話なので一般向けに書き直そうかと思ったのですが、自分で読んでみると、直さなくとも、建築が専門外の方が読んでも分かる内容だと思えたので、そのまま載せることにしました。
私のこの授業は今日で今年最後になります。
それで今日は、教科書にはありませんが、木造住宅の歴史について、まとめの話にしたいと思います。
建築物にはいろいろな種類がありますが、数の上からも、最も多いのは住宅です。それも、木造の住宅です。それなのに、この木造住宅に関して、大学の建築学科や専門学校の建築のコースなどで、ほとんど教えられてこなかったのです。
最近は少し改善されているようですが、ほんの少し前まで、日本の建築教育の中で、木造住宅の授業というのはごくわずかでした。ほとんどないに等しいと言ってもいいくらいでした。私が建築学生だったのは1990年代の初めでしたが、その頃でも、木造建築の授業そのものが少なくて、しかも、少ない木造の授業は、神社、仏閣、お城などの話が中心で、住宅についての授業というのはほとんどありませんでした。
なぜそうなってしまったのか、今から申し上げます。
明治になって、新政府は、上からの近代化を推し進めました。建築教育の分野では、明治4年に工学寮がつくられ、近代的な建築教育がスタートしました。寮と言っても宿舎ではなくて役所という意味です。役所が運営する工学の学校なので工学寮です。この工学寮が工部大学校となり、造家学科にイギリスの青年建築家コンドルが招かれました。
明治の初めにも「建築」という言葉はありましたが、今と違って、橋を架けたりする工事なども含む広い意味の言葉でした。それで、土木工事のための学問とは違う、建物を造る学問であるとはっきりさせるため「造家学」という言葉を作り、これを教える学科を造家学科と称したのでしょう。「建物」という意味で「家」という字を使うくらい、家が建物の代表だったのでしょうが、この名前に反し、伝統的な一般住宅の研究・教育はほとんど行なわれていません。
この工部大学校造家学科が、後の東京大学工学部建築学科です。
コンドルやコンドルの門下生が悪いのではありません。彼らは新しい国家の期待に応えようとして、新しい建築の時代を拓いていった先駆者でした。
工部大学校だけがどうこうではなくて、明治政府の教育の方針そのものが、特に理系の分野では、ヨーロッパやアメリカから仕入れた学問を中心に教えるものだったのです。
江戸時代の大工には、木造建築の高い技術や知識があったのですが、こうした技術や知識が高等教育に取り入れられることがほとんどないままに、工部大学校や東京大学で建築を学んだ人たちが、母校の東大や、その後つくられた建築の学科・学校の教員になっていったのです。大学教育を受ける人が少なかった時代、教育を受けた人たちは、欧米の進んだ技術・知識を取り入れて伝えていかないといけないという使命感も強かったのだと思います。そうした教員に教わった人の中から建築の教員になる人が出てきて、代々続いてきたのです。
個人的に木造住宅に関心を持つ研究者もいたのでしょうが、木造住宅は一般の大工さんの仕事と見なされていて、学問的な研究の対象から外れ、木造住宅の歴史や構造の詳細を学ぶ場も限られ、文献も乏しかったのです。それが、明治以来ずっと続いたのですね。私が建築を学んでいた1990年代初めでさえ、建築の先生たちの中に「建築とはすなわちコンクリートである」みたいな雰囲気がありましたから、もっと前に木造住宅の調査・研究をなさった先生たちは、異端視されたりして、苦労の割には、正当な評価を受けてこなかったのではないかと察せられます。私が建築学生だった頃、私の母校の先生ではありませんが、ある大学の建築の先生が言っていました、「木造の一般住宅なんてものは中卒の大工のやることで、建築を専門に学んだ者がやることじゃないよ」。戦前の話ではありません。1990年代の話です。
このような歴史的背景がありますから、近年まで、木造教育をきちんと行なう人材があまり育ちませんでした。今でも、木造住宅が専門という建築学者は少数です。
しかしながら、先ほど申し上げた通り、数から考えても木造住宅が一番多いわけですし、必要性から考えても、木造住宅こそが日本の建築の中心と言えます。
時代は変わってゆきます。1990年代初めはバブル経済の頂点の時代でしたから、開発を進めたり投資したりすることがもてはやされ、田舎暮らしだの、小規模の農業だのは蔑まれ、馬鹿にされていたのです。伝統的な日本の木造住宅も、特殊な趣味のように見られ、古い民家を残したいと言っても、そんなのはあんたら一部の物好きの道楽だろう、みたいな感じでした。1970年代以降、戦前の職人がしっかり建てた家がどんどんつぶされて、新建材と外材の住宅になったり、国籍不明のプレファブやツーバイフォーにかわっていきました。新製品の方がいいに決まっているという価値観が蔓延していました。そうした価値観の延長線上のバブル経済でした。バブルの頃、私は当時の「開発」を疑問視していたんですが、なかなか理解してもらえませんでした。それが今では逆に、開発を進めることが疑問視され、田舎での自給的な暮らしや古民家暮しがうらやましがられています。やっと、私の言いたいことがある程度は通じる時代になりました。今後、伝統的な木造建築の技術、小さな工務店の確かな仕事が正当に評価される時代になってほしいと、私は思います。
前置きが長くなりましたが、今日は、日本の住宅建築の歴史を振り返ってみようと思います。
皆さんは「民家」という言葉からどんなものを想像しますか。
民家というのは、もちろん家です。住宅です。それも庶民の住宅です。
最近は古民家という言葉も使われていますが、伝統的な日本の民家は、室町時代の末から江戸時代の初め頃に成立したとも言われ、当時のすまいの様式を受け継いでいます。
室町時代と聞いて驚くかもしれませんが、部分的にはもっともっと古くて、縄文時代の竪穴住居さえ受け継いでいるのです。
それと、もう一つ、私が大事なポイントだと思うことを申し上げておきます。伝統的な民家はその地域の気候風土に根ざしていると、よく言われますが、俗説です。まあ、気候を完全に無視するわけにもいかないでしょうが、何よりも、民家の基本的な形態は、先人から受け継いだ文化に根ざしている、と言ったほうがいいのです。
いい例が、伝統的なアイヌ民家と沖縄民家がよく似ているという事実です。北海道と沖縄では、まるで気候が違います。民家の形態を気候風土を中心に考えると、説明がつかなくなります。両者とも、古い時代の日本の住居を受け継いでいる、太古から受け継いだ文化に根ざしている、と考えるべきでしょう。
私自身、学校で建築の勉強をしましたが、日本の伝統的な民家の様式はこうだとか、縄文時代を受け継いでいるとか、アイヌと沖縄の民家がよく似ているとか、そんな話は授業ではまったくありませんでした。なにしろ、「建築とはすなわちコンクリートである」みたいな雰囲気の中で勉強しましたから。
縄文時代を受け継いでいるとか、アイヌと沖縄の民家の類似性とか、そういった話を始めて知ったのは、2000年に仙台で開かれた民家フォーラムのときです。筑波大学大学院教授の安藤邦廣先生の講演で初めて知って、それから自分でも勉強したのです。
つまり、私は、それまで民家についてきちんと学ぶことなく、建築の学校を卒業して建築士になり、設計事務所で働き、住宅の設計もしていたのです。
皆さんには民家の様式や歴史を知って欲しいと思います。知った上で、建築の仕事に就いて欲しいと思います。それは、日本の住宅のあり方の基本だからです。さらに、すまいのあり方は、自然との調和や人の生き方そのものといった精神の根本に関わることだからです。
それで今日は、縄文時代からの住居の歴史の話をしたいと思います。
縄文時代の始まりと終わりがいつ頃か、地域差もありますが、おおよそ、1万数千年前かそれ以上前から2千数百年前までの、1万年以上続いた時代を縄文時代としているようです。長い時間をかけながらだんだんに移り変わっていったのでしょう。縄文の初めと終わりは諸説がありますから、おおまかな年代として聞いてください。江戸時代と明治時代みたいに、はっきり線を引くことができないのです。
縄文人は、狩りをしたり、魚を採ったり、木の実などを集めたりして、食料にしていました。狩猟・漁労・採集の生活です。栗の栽培などもしていて、実を食料にし、木は建築の材料にしていました。縄文時代も末になると、一部では稲作もあったようです。ただし、農業は補助的なもので、主に、自然界から食料を得て生活していました。
自然界から食料を得る暮らしですから、かつて、縄文人は貧しく不安定な暮らしをしていて、寿命も短かったとされていました。
私が高校生のときですから、1980年頃ですが、その頃の高校の日本史教科書には、15歳以上生きた縄文人の平均寿命は約30歳で、40歳以上まで生きるのはまれ、とありました。歴史の資料集を見ると、15歳未満で死んだ子もカウントした場合、縄文人の平均年齢は約18歳となってました。乳児死亡率がかなり高いと考えられていたのです。どう思います?
1万年以上続いた縄文時代の、ある時代のある地域では、そんな例もあったのかも知れません。でも、それを全体に当てはめて考えてよいのでしょうか。
日本は、気候や土の質の関係で古い人骨が残りにくいのです。サンプルが限られているので、平均寿命を出すのは難しいのです。
最近では、3人に1人は60歳以上まで生きたとする説もあります。縄文の文化が伝承されていったという点からも、ある程度、高齢者がいたと考えた方が自然ではないかと思います。それに、常に厳しく乏しく余裕のない暮らしをしていたら、縄文土器や土偶のような芸術的なものを作り出すことが出来たろうか、とも思います。
さて、いよいよ住宅の話です。
縄文時代の人がどんな家に住んでいたかというと、一般的には竪穴式住居です。三内丸山遺跡と吉野ヶ里遺跡の写真を見てください。地面に民家の屋根を乗せたような写真がありますね。これが竪穴式住居を復元したものです。土間の上に小屋組みを造り屋根を葺いたものと考えてください。土間の中央に炉があり、小屋組みがむき出しです。釘などありませんから、部材は縄で固定しました。最近まで使われていた炭焼き小屋のような感じです。
縄文時代には夫婦という制度はなかったとする説もありますが、結婚の儀式があったかどうかはともかく、こうした遺跡を見ますと、火を囲んで、家族単位で暮らしていたのではないかと思えてきます。
「縄文時代の日本人」なんて言う人がいますが、違いますよ。縄文時代というのは、日本人という民族が形成される以前の時代です。日本列島に住んでいた縄文人と、朝鮮半島から渡って来た弥生人との混血を中心に、おそらく複数の民族が、文化的にも融合して、日本民族を形作ったのでしょう。南方系の血も入っていると言われています。もともとが混血の民族ですから、純粋な日本民族も何もないのです。
2000年に富山県の桜町遺跡から、縄文時代の屋根がそのまま見つかったとされ、安藤邦廣教授も縄文時代の屋根としてスライドを見せて下さったのですが、その後の放射性炭素の測定で、見つかった屋根は古墳時代のものとされました。屋根と一緒に縄文土器も出てきたので、発見されたときの状況から縄文時代の屋根と考えられたのです。古墳時代に水害か何かあって、縄文の遺跡から流れてきた土器類と、当時の家が一緒に土砂に埋まって密閉されたのかも知れませんね。でも、古墳時代の屋根といっても相当古いわけで、完全な茅葺きの屋根が見つかっていますから、それ以前の屋根を類推する手がかりになるわけです。
縄文時代に身近に手に入る防水性の材料で、しかも当時の人たちが加工できる屋根材となると、茅葺きの可能性が高いと思います。三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡の縄文時代の復元住居の屋根も茅葺きです。ただし、復元住居の茅葺きは厚いしきれい過ぎますね。現代の腕のいい茅葺き職人に葺いてもらったのでしょう。鉄の刃物がなかった縄文時代、こんなに厚くきれいに茅をそろえることが出来たのか疑問ですし、必要もなかったと思います。学生を集めて石器で茅を切って茅葺きをやってもらったら、たぶん、もっと実物に近い復元になるでしょうね。
弥生時代、古墳時代も、庶民の住まいはそう大きな変化がなかったようです。基本は、土間の暮しでした。稲作が普及し稲わらが手に入るようになると、わらを敷いて寝たのでしょう。私も、脱穀した後のわらの上に寝転がってみたことがありますが、けっこうあったかいですよ。ちょっとチクチクするのが欠点ですが。
縄文、弥生、古墳時代には、竪穴式住居以外にも、掘っ立てや、高床式の建物もありました。掘っ立て小屋と言うとボロボロの小屋みたいなイメージがありますが、ボロという意味ではなく、土に直接柱を建てた建物のことです。掘っ立ては、建てたばかりの時はけっこう丈夫だそうです。でも、何年も経つと柱の根元が腐ってくるという欠点があり、やがて、玉石の上に建てて、建物を長持ちさせるようになったのです。この、玉石の上に家を建てる「石場建て」が、戦前まで普通でした。
時代が下って平安時代になっても、板の間での暮らしはごく一部の人だけで、一般庶民は、基本的に土間で暮らしていたようです。
当時、板を作るのは大変な作業でした。今なら製材所でどんどん板を挽けますが、縦挽きのノコギリさえなかった時代は、丸太をおおよその形に割って、それから削って板にするという、途方もない作業をしていたのです。削るといっても、今の大工さんが使うような台カンナもありませんでしたから、平らに仕上げるのも本当に大変な作業だったろうと思います。
家に板の間を作るというのは、一部の人にしかできない贅沢だったのです。
平安時代の貴族のすまいというと、広い板の間がある寝殿造りが有名ですが、木の板は貴重品でしたから、広い板の間で暮らすというのはステイタスだったのでしょうね。
現存する寝殿造りは一軒もありません。当時の絵や、遺構の調査による復元図があるだけです。当時の絵といっても、建築の図面として描かれたものではありませんから、人物や風俗を描いた背景に、たまたま建物の一部が描かれているだけです。部分的なものですし、遠近や縮尺を正確に描いているわけでもないので、おおよその雰囲気が分かる程度の絵ですが、こうした絵を見ますと、冬は寒かったろうな、と思います。間仕切り壁や建具で居住空間に気密性を持たせるという工夫がなく、しかも、板の間ですから、庶民のように土間で直に火を焚いて暖を取るわけにもいきません。板の間では、火鉢のようなものを使い、炭を焚くくらいだったのでしょう。しかも板の間は、冬に床下を寒風が吹き抜けるわけで、床が冷えて寒かったろうと思います。
土間というと、冬は寒そうなイメージがありますが、土の温度というのはわりと一定していますから、それほど寒くないし、逆に真夏はひんやりした感じなのです。井戸水は、冬は温かく感じ夏は冷たく感じますが、似ています。
貴族の、広い板の間で暮らすというステイタスは、やせ我慢が求められたようですね。
ただ、板の間にはいい点もあります。湿気対策になりますし、土ぼこりも出ませんし、水拭き出来ますし、食事をするにも衛生的です。やがてノコギリが発達し、板が入手しやすくなると、一般の住宅にも板の間が取り入れられていきます。地域性もありますが、特に東日本では、縄文時代から土間にあった炉が板の間に上がる形で、囲炉裏になります。囲炉裏は煮炊きにも暖房にも使われました。
戦前の日本の一戸建ての住宅には、必ずと言っていいくらい、土間と板の間がありました。
土間の暮らしは縄文時代を受け継ぎ、板の間の暮らしは平安時代を受け継いでいます。
これが民家の「土間」と「板の間」の起源です。それと、もう一つ、日本の伝統民家の重要な要素に「座敷」、つまり畳の部屋があります。
座敷と言われる畳敷きの部屋の起源は、書院です。
書院というと、室町時代の銀閣寺とか、その後の武家屋敷などを連想するかも知れませんが、もともとはお寺の中の書斎のような部屋から始まりました。仕切られた部屋に畳を敷き、仏様の絵を飾り、お坊さんたちが仏教の本を読んだりする部屋でした。それを貴族や武士が取り入れるようになり、やがて、武士の住まいの書院造りになってゆきます。
もう一つの流れとして、座敷には数奇屋造りの影響もあるようです。
数奇屋造りと言えば茶室が有名ですが、数寄屋造りが成立した戦国時代は、森林破壊の時代でもありました。
戦乱の時代ですから、町が焼かれれば、建物を再建するために木材が必要です。戦う武器である刀やヤリ、ヨーロッパから伝わった鉄砲などを作るのには鉄も必要で、当時の製鉄は「もののけ姫」に出てくるような「たたら製法」でしたから、製鉄のためにたくさんの薪や炭が必要になり、木が消費されました。こうして、特に西日本で、大規模な森林破壊が起きたのです。
その結果、木材が不足し、建築に適した材木の入手が難しくなって、細い木や曲がった木も建築に使われるようになりました。でも、それを否定的に考えるのではなく、美しいものととらえるのが茶室の美学です。
西日本は土壁の文化と言われます。良質の土が取れるというのもありますが、森林破壊の時代があって、なるべく板壁を減らして木材を節約しようとして土壁が発達した、というのもあるようです。
今、茶の湯というと、お金持ちの奥さんやお嬢さんがすることのように見られることがありますが、もともとは戦国時代の武士のたしなみでした。一期一会という言葉がありますが、いつ死ぬかわからない戦国の武士にとっては、それが現実だったのでしょう。千利休は、当時日本に伝えられていたキリスト教の儀式を参考にして、茶道の作法を完成させたとも言われています。茶道の質素倹約の美学には、当時の武士の状況や木材不足のほかに、キリスト教的な精神性も影響しているのかもしれません。
もともとお寺で始まった書院に、おそらく、数奇屋の影響も加わり、座敷と呼ばれる畳の部屋が完成していったのでしょう。座敷は、日本家屋を特徴づけるものです。多目的に使える万能の部屋とも言えます。
今でも、座敷は、接客スペースになります。畳の上に書類を広げることもできます。ちゃぶ台を持ってくれば食事も出来ます。疲れたら寝転がることもできるし、布団を敷けば寝室になります。現代なら、畳の上に文机(ふづくえ)を置き、そこにパソコンのディスプレーとキーボードを載せて作業することもできますね。私もそうしています。このような多目的に使える部屋は西洋式の建築にはありません。洋部屋では、床に書類を広げたりパソコンを置いたりできないので、机や椅子が必要ですし、食事にはテーブルが、寝るにはベッドが必要です。食堂と寝室と応接間を兼用するわけにもいきません。西洋式だと部屋の使い道が固定され、それぞれの家具も必要で、多目的な使い方ができないんです。
洋部屋と比べれば、畳敷きの日本の座敷は、かなり柔軟性があって、いろんな使い方が出来る優れた空間だと思います。
座敷は基本的に土壁で、板壁にはしません。床柱(とこばしら)には、わざと、凹凸のある木や曲がった木も使われます。木材が不足した時代があったことを忘れないかのように。
庶民の家である民家は、「土間」と「板の間」と「座敷」とが合体したものです。もちろん地域性もありますが、この三つの合体は、ほぼ全国共通です。
非常に長い年月をかけて、庶民は、実用的で、見た目もよく、身近に材料が入手できて、かつ、自分たちで施工できるものを受け入れて民家というものを完成させたのです。民家は、縄文時代も、平安時代も、室町時代も受け継いでいます。その基本形を踏まえた上で、気候や、自分たちの生活のあり方に合わせて発展させてきたのです。
現代の暮らしは昔とは違うと言っても、人の営みの基本は変わりません。
私は、住宅のあり方も、過去の否定ではなく、過去を受け継いで発展させてゆくのが望ましいと思います。
私たちは生身の人間ですから、お金を得て暮らしていかなければならず、原則や理想だけでは食べていけないのが現実です。それは分かりますが、建築の仕事に就くみなさんには、今、私が申し上げたような話を心に入れておいて欲しいのです。伝統的な民家の基本は、特殊な趣味などではありません。庶民が生きてきた姿勢そのものであり、生活そのものです。ある意味、淘汰の結果とも言えます。先祖から何を受け継いできたのか知ることで、後の未来に何が残るか、何が廃れるか、考えてゆくヒントにもなるでしょう。どうか、一時の流行に流されずに、住宅建築はもちろん、ものごと全般を長い目で見て欲しいのです。
これで今日の話を終わりにします。
(伊藤一滴)
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