マルクス哲学批判序説
先に書いたとおり、私は左翼ではありませんが、学生の頃、マルクス主義系の著作も読みました。まだ、そういう時代でした。1980年代半ば、大学でもマルクス経済学やマルクス主義思想に関する授業があり、マルクス主義は学問として扱われていて、当時はまだ正面から批判するのがためらわれる雰囲気がありました。
ソ連も東欧諸国も崩壊して久しい今では、マルクス主義批判などいくらでも出来ますし、書き出したらきりがありません。最近は、特にマルクス経済学など初めから相手にもされないのか、あまり批判も聞かなくなりましたが、ひところ前まで世にはマルクス経済学やマルクス主義国家に対する批判が数多く出まわっていました。でも、そのわりに、疎外論や自然観についての批判はあまり目にしませんでした。
マルクスは、資本主義体制化での労働が人間を疎外する、と考えていました。産業文明それ自体は人類の発展によるものとされ、蒸気機関や電力の使用による生産力の拡大が期待されました。マルクスは、ブルジョアジー(資本家階級)が生産手段を独占していることが問題なのであって、革命によってプロレタリアート(労働者階級)が生産手段を手にすることを期待しました。日本でも30~40年前まで、「資本主義体制下での人間疎外」を無批判に信じ込んでいる人が少なからずいたようですし、私が学生だった1980年代半ばにもかなりいました。
でも、私は、人生経験を積むうちに、労働によって疎外されてゆく原因を「資本主義体制だから」と言うには無理がある、と思うようになりました。労働による疎外は、体制がどうこうではなくて、単に「仕事に意義を感じないこと」が原因だと素直に考えたほうがよいのです。
科学技術が進歩し、産業文明が発達し、意義を感じない仕事が増えました。資本主義だろうが社会主義だろうが民主主義だろうが王政だろうが、意義を感じない仕事が続けば人は疎外されていくのです。
そんなことを思いながら、そもそも仕事とは何か、労働とは何かと、あらためて考えているところです。
これは、内山節著『戦争という仕事』にあったのですが、「マルクス主義も人間中心の近代思想」であり、自然は開発して利用すべきものであって、自然の恵みによって人は生かされているという視点を欠いていたといいます。
たしかに、マルクスの主張には「自然の恵みの中で働くことの喜び」は感じられません。人民が生産手段を手にし、機械の力で人間の労働を軽減すれば、余暇が増え、幸せになる、みたいな主張です。これは、「労働は苦役であり、機械力でなるべく人間の労働を減らした方がよい」と読めますし、「社会主義社会には大自然の中で汗を流して働く喜びはなく、楽しみは余暇だけ」とも読めます。
こうした考えでは、自然に対する感謝や畏れの念も出てきません。自然の中に神(あるいは仏)の働きを感じ、畏れ敬う気持ちも出てきません。人知を超えたものへの敬意を欠くどころか、自然は開発して利用するものであり、宗教は、権力が人民を支配するための道具にしか見えません。
マルクス主義は経済学や国家論の欠陥だけでなく、疎外論や自然観にも無理があるのです。
でも、みんなあまり言いません。
それは、自己疎外は資本主義も社会主義も同じだし、資本主義もまた人間中心の近代思想で、自然の恵みによって人は生かされている、自然の恵みの中で働くことは喜びである、といった視点を欠いたまま、科学信奉、産業信奉の方向で、自然を都合よく開発しながら続いてきたからです。マルクス主義の疎外論や自然観を非難すれば、資本主義も同じように非難しないといけなくなるからです。(伊藤)
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