進歩という名の修羅
自分もパソコンを使っていて言うのもなんですが、パソコンは、ずいぶん人を支配する道具になりました。
パソコンに代表される電子機器の数々は、職場や一般家庭にも多数入り込んできて、かなり、人を支配しています。
山里暮らしは、自然の秩序に合わせないといけないことも多いのですが、だからといって自然から支配されているとは思いません。人間も自然界の一員ですし、自然というものはよほどの災害でもない限り急に変化することもありません。基本は、同じような四季の繰り返しです。だのに、ちっとも飽きません。季節を待ちながら自然の秩序に従って暮らすのは充実感があり、支配されている感じがしないのです。
たとえトラブルがあっても、やっぱり私は山里暮らしが好きです。
ところがパソコンは、こっちがパソコンという人為的なものに合わせないといけないし、ハードもソフトもそれなりの値段のものをお金で買わないといけません。設定はめんどうで、業者に頼めばお金もかかります。金銭と手間を費やしても、どうせ数年で買い替えないといけなくなる道具です。自分はこれ以上パソコンの「進歩」などなくていいと思っていても、進歩は止まらず、本体それ自体は何の問題もなく動くのに、セキュリティーや周辺機器や消耗品の問題から買い替えをせまられます。携帯電話やデジタルカメラもそうですが、ユーザーはいいカモです。仕方がないと思いながらも、使い続けねばならず、そういうものを使うこと自体、どこか虚しいです。
このような、目まぐるしく「進歩」する製品を作り続ける人、旧機種の解体や廃棄を黙々とやり続けている人もいるのかと想像するだけでも、なんだか気の毒になります。
「進歩」が輝きを失いました。「開発」や「発展」もそうです。今ではそうした言葉に、輝きよりも疲れや虚しさやうんざりした思いを感じるようになりました。
どうも、進歩、開発、発展といった修羅に組み込まれてしまったような感じです。
どうすれば、この修羅から脱することができるのか、私は模索中なのですが、少し、方向も見えてきていますから、今の世の中はこうなのだから仕方ないというふうに、あきらめてはおりません。(伊藤)
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