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未来へ

考えてみれば、未来に対する明るい予測の根拠など何もないのに、山里に暮していると何だかほっとして、安心するから不思議です。これは、自然との関係、地域の人たちとの関係に、安心感があるからだろうと思います。

家もそうです。昭和初期の民家ですが、戸の口(玄関)から入ると土間があり、自家製の薪ストーブが燃えています。板の間があり、囲炉裏があります。自然素材の家で、焚き物で暖をとる暮らしに、太古から自然と共に暮してきた連続性を感じるからかもしれませんが、ここに帰って来ると安心します。どんなに子どもたちが騒いでいても、安心します。

そして、畑です。土はつくるものではなく、できるものだと思います。もともと合成農薬を使ったことはありませんが、福岡正信さんや川口由一さんらの著書に出会ってから、機械で耕すのをやめ、買った肥料を施肥するのもやめました(自家製の完熟堆肥だけ、作物によっては加減して使っています)。せいぜいクワで畝(うね)を直すくらいで、あとは不耕起栽培です。
畑がある、しかもその畑は、企業が供給する農機具、農薬、化学肥料などの物品に支配されていない、というのも安心の理由なのでしょう。
この畑の作物が、春、夏、秋の食卓に上ります。秋遅くに青菜(せいさい)を塩漬けして冬の食料にしますし、秋に収穫した大根や白菜は長期保存できますから、これも冬の野菜になります。なにも真冬にキュウリやトマトを食べる必要はないのです。
ある程度は、食料を自給している、というのも安心です。

来年からはいよいよ、近くの田んぼの手伝いをさせてもらうことにしました。近所の稲作農家はどこも高齢で、助手を欲しがっているし、私は稲作を覚えたいし、どっちにもいいのです。いつかは、自分の田んぼを手にし、お米を自給するのも私の目標の1つです。

ほんの20~30年前まで、産業社会はバラ色の未来を描いてきました。しかしながら、到達しないどころか、どんどん色あせてゆく現実を見ます。
科学や産業の発達が不十分だからではありません。それどころか、もうこれ以上発達させなくてもいいくらいまで来ています。これ以上の発達は、人類の生存を脅かすような環境破壊や今までになかった問題を引き起こすことでしょう。
産業が資本家によって独占されているからでもありません。過去の、そして今の社会主義の現実を見てください。
教育がいきとどいていないとか、情報が公開されていないとか、みな、ハズレです。こんなに進学率が高くインターネットも普及した今の日本で、バラ色の未来に到達しない理由にはなりません。

科学や産業の発達は、そもそも初めから、バラ色の未来には向かっていなかったのです。
科学技術が発達し、産業社会が到来しました。そしてこの産業社会は、今現在と近い未来の自分たちの利益のことしか考えていません。人類全体のことや、五十年、百年先の展望など、まるで眼中にないのです。
産業社会の中で、私たちは、目先の利益、目先の便利さと引き換えに、環境や未来を消耗させながら、人間らしく生きることを、少しずつ削り落としてきました。私たちの父母、祖父母が手作りしていた日用品や日常の食事、地域の職人たちが手作りしていた住宅や家具、生活用品の数々まで、産業が供給するものにかわってゆきました。
自分でも気づかないうちに、生活も、精神面さえも、産業を担う企業の論理に大きく影響され、支配されてきました。
私や妻が、便利なはずの街中の暮らしの中で感じた居心地の悪さの正体は、そこにありました。
人間らしく生きることを、少しずつ削られる日々だったのです。

産業社会の現状を、ある人たちは無批判に受け入れ、ある人たちは仕方なく受け入れ、ある人たちはストレートに受け入れることができずに悩み傷ついています。
今現在と近い未来の自分たちの利益のことしか考えていない産業社会に身を置きながら、それでも自分の責任をまっとうしようとする人たちは苦しむのです。まだ人間性が壊れていないから、相手のことを人間だと思うから、他者を、自社や自己のための利潤の道具と割り切ることができません。海外の人や資源や地球環境を、自社や自己のためならどう使ってもいいと割り切ることもできません。だから、苦しむのです。そうやって苦しんでいる人が、「それはお前の弱さだ」とか「そんなんじゃあ企業人として失格だ」とか言われるわけです。もっとも、何も悩まずに割り切っていられるようなら、かなり人間が壊れているのでしょうから、そっちの方がもっと気の毒ですけれど。

人間らしく生きる、人間であることを回復する、そういう方向を定めることで、私は安心を得ました。
その結果が、低所得だろうが、人から「負け組」扱いされることだろうが、もう悔いはありません。

もちろん、矛盾もあります。山里暮らしにはジープのような自動車やチェーンソーのような道具が必要で、それらは産業が供給する物品です。でもそれは、今の現状で他に選択の余地がないからそうしているのであり、今後の状況の変化により、より環境への負担が少ない方法を選択できるようになれば、選択を検討できるでしょう。
私は現時点での矛盾を承知の上で、人間らしく生きる未来へ向かって進みたいし、そのつもりで動き出しているところです。(伊藤)

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