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家の取り壊しで思ったこと

ふもとでは桜の花が咲き始めました。でも、きのうも今日も花冷え。山里は雪になりました。やっと出てきた福寿草、フキノトウ、アメフリバナ、甘草の葉も、うっすら雪化粧です。

去年まで住んでいた家を取り壊すことになり、中を片付けました。建物それ自体は70年代半ばに粗製濫造された新建材住宅ですから、壊しても惜しくはないのですが、中の荷物が多く、もったいないものもあるので片付けに手間どりました。
いくら、惜しくない新建材住宅とはいえ、日本の住宅の短命を嘆いている私が、家族で暮した家を壊すというのは、ちょっと複雑な気分です。
1年もほったらかしにしていたのは私たちが悪いんですが、空家のままにしていても困らなかったので荷物置き場にしてました。小さい子どものいる日々の暮らしの中で、なかなか、じっくり片付けることが出来なかったという事情もあります。1年間なくてもすんだものばかりですから、いらないと言えばいらないものなのでしょうが、処分もできずにそのままになっていました。
手元に置きたいものは持ってきて、あとは欲しい人にあげたり中古屋に渡したりして、残りは廃棄物として処理してもらいました。トラック数台分の廃棄物が出て、運搬費と処理費で約20万円かかりました。
設計事務所も兼ねた家だったので、膨大な量の古いカタログ、壁紙ふすま紙などの見本帳、タイル、床材、壁材、その他の見本も相当量ありました。カタログなど、ちり紙交換にでも出せばいいのにと思うかも知れませんが、大きさも不統一で、金属で綴じてあるものやビニールの表紙のもの、サンプルがついているものもあり、紙の本だけ仕分けしてヒモで縛って出す余裕もありませんでした。
お願いしたのは、知り合いの大工さんから紹介してもらった良心的な廃棄物処理業者で、金属、ガラス、紙、布・・・・・、というようにきちんと分別してましたから、それぞれリサイクルなどの処理に出すのでしょう。それだけでもまだ救いです。以前は、不要な荷物を中に残したまま、ユンボで家ごとミンチにする荒っぽい解体もけっこうありましたから。

今の私は、大量のカタログや見本品を必要とするような設計や暮らしのあり方に疑問を感じています。一度入手すればずっと使えるならともかく、メーカーは製品を目まぐるしく変化させ、目新しさを演出しますから、そのたびに大量のカタログではたまったものではありません。

私たち一家は、試行錯誤の末に山里の古民家暮らしに落ち着きました。今思えば、街中に暮していた頃は、無駄と言われても仕方のないお金、時間、労力、そして資源もずいぶん使ってしまいました。でも、そうした過程があって今に至ったとも言えます。山里で、子どもたちは、まだ雪の残る野山を元気に走り回って遊び、夜は家族で薪ストーブを囲んでいます。ここに越してきて本当によかったと思います。

産業文明の物品で重武装した建物が、20年後、30年後どうなるか。電子制御の複雑なシステムの数々がどうなるか。また、そうした中での暮らしがどうなるか、いずれ答えは出るでしょう。(伊藤)

訂正:前回、「娘はもうすぐ生後5ヵ月」と書くつもりで「6ヵ月」なんて書いてしまいました。タイプミスです。5のキーを押したつもりが隣の6のキーを押していて、気づかずにアップロードしてました。単純なミスです。訂正します。

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