幸福な家庭はどれも似たものだが・・・・・
やっと新年度の初ログです。いくら時間がゆっくり流れるような山里でも、春先はちょっと忙しく、ご無沙汰してました。
長男は小学2年生、次男は保育園の年長組になりました。去年の11月末に生まれた娘はもうすぐ生後6ヵ月、首や手足もしっかりしてきて、なでてあげると声をあげて笑うようになりました。
山里は、まだだいぶ雪が残っていますが、日差しは春めいているし、明るい時間も長くなってきました。
子どもの成長もそうですが、春もストレートではなく、進んだり後退したりしながら、少しずつやって来るようです。
たまたま、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を手にし、冒頭の文章(実は冒頭しか読んでないんですが)にうーっと声が出そうになりました。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(中村融訳)。
トルストイは、見抜いていました。
幸福のパターンはそんなに数多くなくて、幸福な家庭はそれぞれ似ている。でも、不幸は無数にあり、多種多様であって、不幸な者同士が似ているとは限らない。むしろ多くの場合、それぞれに不幸なのだ。どうも、そういうことのようです。
家族の幸せの根底にあるのは、互いを尊重し、いたわる気持だったり、それぞれの考えがあっても基本的な価値観は共有できることだったりするわけです。子どもに対しては、深い愛情ときちんとしたしつけ、といったところでしょうか。本当に大切なことは案外少ないので、幸福な家庭はどれも似ているというわけです。
互いの尊重や価値観の共有があれば、はた目には大変な境遇に見えても、当人は不幸と感じないこともあるでしょうし、逆に豊かで恵まれているように見えても、当人は、自分は不幸だと思っていることもあるでしょう。順境だから幸せだとは限りません。逆境が家族の絆を深めることもあります。健康と病気もそうです。
同じような境遇にあっても、それを不幸と感じる人とそう感じない人がいるのは、理解者がいるかどうかや、その人の心の持ちようも関係しているからでしょう。この、幸福というものも、数値化できないものの一つです。
世間には誤解が広くはびこっているようですが、金銭や健康などは、幸福の絶対条件ではありません。極端な貧困でない限り、金銭的に豊かでなくとも、あるいは病気や障碍があっても、互いに支えあい、幸福な暮しをしている人たちはたくさんいます。でも、互いに尊重し合う気持を欠いて、幸福に暮している人っているんでしょうか。
ふさわしくないと思えることが優先され、ねじれたことの数々がはびこっています。世の中は、ひたすら便利さを追求し、自然から離れ、産業文明の利にひたり、またそのために営利追求を優先し、お金に追われ時間に追われ、人は助け合うことを忘れてバラバラになりました。把握できないほどの商品の種類とめまぐるしい変化、悪徳商法、詰め込み教育、変なテレビ番組、うるさいほどの勧誘電話やダイレクトメール、怪しげなサプリメントや美容の案内、人を惑わす新宗教・・・・・、その他いろいろ、ねじれも多種多様です。
もう、ねじれたことをごちゃごちゃやるのはいったん御破算にしたらどうでしょう。子どもであれば自然の中でおもいきり遊び、他の子どもや地域の大人たちと直接関わりながら、いろいろ身につけていくのが一番いいと思います。大人だって、自然の中で汗を流し、近所の人とお茶を飲んだりお酒を酌み交わしたりしながら、おしゃべりしたり、時にじっくり話したりすれば、楽しいんです。しかも田舎だと、場所には恵まれていますから、お金をかけて場を確保しなくてもけっこう楽しめます。そして、癒されます。
世の中にはいろいろな価値観があるのでしょうけれど、最近、私は思うのです、「大自然の中で、いたわりあう家族がいて、近隣と仲良く暮らす、これ以上の幸せが他に何かあるのだろうか」と。(伊藤)
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