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商業資本ではなく

4月29日は、集落の氏神様のお祭りでした。これは男衆の祭りだそうですが、お祭りといっても各家の手料理を持ち寄っての親睦会みたいな感じです。今年から私も仲間に入れていただき、例のゼンマイ煮とふかしご飯を持参し、お酒をいただきながらいろいろな話をしました。集落には高齢者が多く、中学生以下は4人だけ(そのうち2人は我が家の子)、なんとか過疎化に歯止めをかけたいという話も出ました。
私個人は、山里は廃れる一方だとは思いません。たぶん今後、山里の良さに気づく人は気づくでしょう。都会だから儲かるという時代でもなくなりました。それに、たとえ儲かったとしても、だから幸せかといえばまた別な話です。
山里に住んでいる人たちは、「山の暮らしじゃあ食っていけないよ」なんて言ってるわりにはみんな食べています。数字として表われる現金収入は街より低いでしょうが、生活に必要なお金もずっと少なくて済むのです。
田舎の暮らしは不便とされてきました。ここは田舎も田舎、雪国の山里です。おかげで、開発から取り残されてきました。私は、こういう場所が残っていてよかったと思っています。便利とされる場所は開発され、古民家は壊されて新建材の家が建ち、地域の習慣や人と人との関係も断ち切られてきました。失われたのは民家だけではないのです。民家と共にあった人の暮らしそのものが変わってしまったのです。見てください、最近の住宅、やたら防犯性が強化され、二重鍵だの強化ガラスだの警備会社への通報システムだのと、まるで要塞みたいです。開放的な造りこそ、日本家屋のよさであり、住みやすさであったはずなのに・・・・。
それにかわるように大規模な商業資本が入り込んできて、以前は自分たちでやっていたいろいろなことも、お金を払って業者にやってもらうようになりました。消費はもちろん、教育的なこと、ちょっとした家の補修、冠婚葬祭、防火防犯の見回り、その他もろもろに企業が入り込んできました。
たとえば、うちにも子どもが2人おりますが、地方都市にいたときには育児の分野でもいろいろな売込みがありました。でも、ここではほとんど必要ありません。遊び場はいくらでもありますし、近所の人が声をかけてくれたりします。そもそも、自然とのかかわりや地域の人とのかかわりは、お金を払ってサービスを買うという関係ではないのです。
この5月から、小1の長男には、スクールバスの乗り場まで1人で歩かせるようにしています。あとから聞いた話ですが、ある朝、息子はバスを待ちながら泣いていたのだそうです。たまたま通りかかった農家のおじさんが声をかけてくれて話を聞いたら、いつも一緒にバスに乗る近所のお姉ちゃんがなかなか来なくて、もうすぐバスが来そうだし、どうしていいかわからなくなってしまったということだったのだそうです。「お姉ちゃん、風邪かもしれないから、バスが来るまでおじちゃんが一緒にいてあげる。だから心配すんな」と、そのおじさんは一緒にバス乗り場で待っていてくれました。ちょうどバスが来たときにお姉ちゃんも走ってきて、ただ、朝出るのが少し遅れただけで、体調が悪いわけではないというので、おじさんも安心してバスを見送ったとのことでした。通りがかりの人が声をかけ一緒に待っていてくれるような日常の中に、地域の人たちの優しさ感じています。田舎暮しの日常は人間的なかかわりの連続です。
(補足)本来、人はみな優しさを持っているのに、現代の産業社会に組み込まれていく中で、なかなか優しさを表せなくなっているのではないのでしょうか。前回、鉄道事故のことに触れましたが、特定の個人を責めるつもりはありません。あの中で言いたかったのは、人間を思考停止にしてしまうシステムや風潮への批判です。(伊藤)

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