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信仰の根拠は聖書のみ? その歴史的考察(3) ルターにとっての旧約聖書とアポクリファ

マルティン・ルターは旧約聖書についてどう考えていたのだろうか。また何故にアポクリファ(旧約聖書続編)は正典に含まれないとしたのだろうか。
彼の旧約聖書観と、アポクリファに対する立場を考えてみる。

1.ルターの旧約聖書観
簡潔にまとめればこうなる。
ルターは旧約聖書もまた神の御言葉であるとし、旧約はキリストを指し示し、キリストにおいて成就する神の救いを証言しているものと考えた。
彼にとって、旧約聖書はすでに効力を失った過去の教えではなく、福音を理解するための前提であった。ただし彼は、律法と「行ないによる義」とを結びつける解釈を拒み、旧約もまた「信仰による義」を教えているとした。
ルターは、旧約聖書はキリストに至るものとして読むべきであり、そういう読み方をしないと律法主義に陥るおそれがあると考えた。

2.ルターにとってのアポクリファ
1534年のルター訳ドイツ語聖書ではアポクリファ(旧約聖書続編)の部分は正典と見なされていない。ただしルターは価値のある文書と認めて翻訳し、旧約と新約の間に挟んでいる。RSV with ApocryphaやNRSV with Apocrypha、日本の新共同訳や聖書協会共同訳の旧約聖書続編付きのような形である。

ルターがアポクリファを正典から除外した理由として、以下の3つが挙げられるが、これらはどれも口実であって真の理由ではないと私は考えている。

1.ヘブライ語正典がない

2.新約聖書の中で、イエスや使徒が引用している例がない

3.教義の根拠にできない

1について言えば、アポクリファの中には、もともとはヘブライ語で書かれた文書もある。

2にしても、ルターが認めた旧約正典39巻のすべての文書をイエスや使徒が引用しているわけではない。
新約聖書には、そのままの引用ではないにしても、明らかにアポクリファを意識した記述がある。また、新約聖書のユダの手紙には偽典からの引用まである(※)。
新約聖書の執筆者らが、旧約39巻だけでなくアポクリファや偽典も読んでいたのは間違いない。しかも、それが正典なのか正典外なのかの区別をしていない。

3は、理屈のつけようによって何とでも言える。

※:ヨハネ福音書はシラ書24章21節を意識し、言葉をひっくり返している。ヘブル書11:35は2マカバイ7章も意識して書かれている。ローマ書1章は知恵の書13~14章の影響を受けている。ヤコブ書1~5章はシラ書の見解とかなりの類似性が見られる。
また、ユダ書 1:14~15は偽典の2エノク書 1:9からの引用である。


考えてみれば、なぜキリスト教の正典をユダヤ教に合わせないといけないのだろう。
イエスや使徒たちが生きて活動していた時代にマソラ本文が使われていたなら話は別だが、当時マソラ本文なんてなかった。ユダヤ教徒によるマソラ本文の確定はなんと9~10世紀頃だ。そして現存する最古の写本は11世紀のレニングラート写本だ。

イエスや使徒の時代、正典(旧約聖書)の範囲は明確に定められていなかった。
新約聖書の中には旧約からの引用も多数あるが、正典目録(正典の範囲を示す一覧表)はない。
新約に引用された旧約の約8割は七十人訳ギリシャ語聖書からの引用であり、ヘブライ聖書からの引用ではない。七十人訳はヘブライ聖書とニュアンスの異なる箇所も多い。

ユダヤ教のファリサイ派を中心とした学者らによってヘブライ聖書の正典39巻が定められたのは西暦90年代になってからである。(当時の文書の分け方では39巻ではなかったが、内容は同じだから39巻と書く。)
当時のキリスト教徒はこの正典の決定に加わっていないし、これに合意もしていない。
キリスト教徒は、ユダヤ教徒の正典決定など無視して、七十人訳を使い続けていた。七十人訳にはアポクリファも含まれ、それが正典か外典か何も区別されていない。当然、これを使っていたキリスト教徒にとってアポクリファも含めて旧約聖書だった。
その後、キリスト教においてラテン語訳の聖書が主流になるが、これにもアポクリファが含まれている。アポクリファはユダヤ教徒が除外してもキリスト教徒によって受け継がれた。そしてアポクリファを含む旧約聖書が用いられたまま宗教改革を迎えるのである。

となると、ルターがアポクリファを正典から外した理由は、理屈が通らなくなる。

ルターの真の目的は「第二マカバイ記」を正典から外すことだったのではないか、と私は考えている。(マカバイの名は、マカベア、マカビー等と記されることもあり、統一されていない。)
第二マカバイ記だけを除外する適当な理由がないため、ユダヤ教のマソラ本文にない文書をすべて旧約正典から外し、上記のような理由を後付けしたのではないだろうか。
そのように広く言われているわけではないから、私の想像であるが・・・。

第二マカバイ記はプロテスタントの正典(聖書66巻)にない文書なので、あまりなじみのない方もおられるだろうから、簡単に紹介しておく(※)。

※日本語訳では、古くから聖公会版があった。新共同訳が出る前、私はこれで読んだ。
フランシスコ会訳などのカトリックの旧約聖書、および旧約聖書続編付きと書いてある共同訳の聖書には載っている。

これはギリシア語で書かれた古代ユダヤ教の文書の一つである。マカバイ戦争(紀元前2世紀)の時代のことが書いてあり、旧約と新約をつなぐ文書の一つと言える。
かなり残酷な殉教の場面も出てきて、殉教者が称賛される。第7章の「七人の兄弟と母の殉教」の箇所など、豚肉を食べることを拒否して殺されていく人たちの話だが、豚肉禁止の習慣のない私としては、そこまでする必要があるのかと思ってしまった。時代背景が今とまるで違う。当時は豚肉を食べることは神ヤーウェへの信仰を捨てることと同じだったのだろう。小説「沈黙」に出てくる踏絵みたいだと思った。
神の摂理と復活の希望が語られ、罪あるままに死んだ人のための祈り、つまり「死者のための祈り」が出てくる。この「死者のための祈り」をルターは認めたくなかったのだろう。
現代ならば、私は、純粋な「死者のための祈り」が問題だとは思わない。むしろ、人として当然の感情ではないかとさえ思う。「死後の魂は神の裁きを受けるのであり、生者の祈りによって状態が変わることはない」とする見解を知らないわけではないが、残された側の思いの表明として死者のために祈りたいと思うのは当然ではないかと思うのである。
それに、「神様が決めたことに対して人間がどうこう言ったって無意味だ」などと言い出したら、この世界で起きているすべての現象は「神様が決めたこと」または「神様が認めたこと」だから、「人間の祈りはすべて無意味だ」となりはしないか。
生者の祈りによって状態が変わることがあるのか、ないのか、そんなことが生身の人間に断定できるのだろうかと思えてくる。
祈りとは、祈る側の思いの表明だ。何に感謝し、何を讃え、何を求め、何を願うのか。自分はどうありたいと願うのか、世はどうあるべきだと願うのか。そうした思いの表明なのだ。だから、たとえ神が存在しなくとも祈ることには意味があるという話になる。
今でも、「死者のための祈り」の是非はプロテスタントでは微妙なのだろうが、カトリックの人にこうした話をしたら、死者のために祈るのは当然という感じで、新旧両派の意識の違いを感じた。
私自身は、「死者のための祈り」を認めるべきだという考えである。
ところがこれが、「あなたが亡くなったら教会はあなたのために祈るから、生きているうちにお金を払っておきなさい」となると、話が違ってくる。自分の死後、教会にちゃんと祈ってもらわないと煉獄で大変苦しむことになるから、今のうちにお金を払っておこうとなる。
死後の不安を煽って信者を脅すことで教会が収入を得る。これは中世末の教会の堕落である。死後の苦しみの軽減になると思わせ、「祈り」を販売したのだ。贖宥状(免罪符)の販売と並ぶ当時の教会の堕落である。
カトリックはこうした過去の問題を改めてきた。むしろ現代の自称「福音派」が中世末のカトリックと似ていて、悪い意味でカトリック化している。「福音派」は煉獄の苦しみとは言わないが、死後の不安を煽り続けることで「教会」から離れられないようにして金銭や労力を搾取し続ける。カトリックの良い部分は受け継がず、悪い部分はしっかり受け継いでいる。教派や時代が違っても、堕落した宗教は似てくるものだ。

ルターは「死者のための祈り」を金儲けの手段に使うことが許せなかった。
彼は「死者のための祈り」も「煉獄の存在」も否定した。根拠に使われそうな第二マカバイ記を正典から外したかったが、第二マカバイ記だけを外す適当な理由がなく、アポクリファを全部外してしまった。アポクリファを正典から外す理由をいろいろ挙げているが、それらは口実なのだろう。
以上、私の想像であるが。

だとすると、「死者のための祈り」を金儲けの手段に使わないのであれば死者のために祈るのもアポクリファも認められることになるのではないか。

そのように考えると、旧約正典の範囲がはっきりしなくなる。(もともと宗教改革以前ははっきりしなかったのだ。)
範囲がはっきりしていないのに、「信仰の根拠は聖書のみ」とは言えなくなる。

これも私が「信仰の根拠は聖書のみ」とは言えないと考える理由である。

(伊藤一滴)


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