ルカ福音書のイエスは「人間を捕る漁師にしよう」とは言っていない(改訂版)
ルカ福音書のイエスはシモン・ペトロに「人間を捕る漁師にしよう」とは言っていない。
ルカ5:10の後半にこうある。
καὶ εἶπεν πρὸς τὸν Σίμωνα ὁ Ἰησοῦς,
Μὴ φοβοῦ· ἀπὸ τοῦ νῦν ἀνθρώπους ἔσῃ ζωγρῶν。
訳せばこうなる。
そして、イエスは、シモンに言った。「恐れてはなりません。今からあなたは人を生け捕るようになるでしょう。」(私訳)
どこにも「漁師」という単語は出てこない。
「人間を捕る漁師」という言い方は、マルコの文や、マルコを写したマタイの文に出てくる。ルカの福音書を訳すとき、なぜ、マルコやマタイの文を組み込んで「漁師」と訳すのか。(口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳他)
こうした訳者らは、マルコやマタイの記述につられて原文にない言葉を「訳」してしまったのだろう。
写本はいろいろあるのだろうが、かなり高い確率で、ルカ自身のオリジナルには「漁師」とは書かれていなかったと考えられる。写本記者が他の福音書と合致する箇所をわざわざ別の表現に書き換えるとは考えにくいからである。
天下の「口語訳聖書」、「新共同訳聖書」、「聖書協会共同訳聖書」といえど、原文にない「漁師」という言葉を「訳」してしまう、その程度の訳なのだ。
ここは新改訳が正しく訳している。新改訳は、ときに、はっとするくらい的確に訳していることがある。なお、文語訳も、またRSVなどの英訳も「漁師」という訳語は使っていない。戦後、日本の口語訳聖書の訳者がうっかり「人間をとる漁師」と誤訳し、1980年代の新共同訳聖書の訳者も、最近の聖書協会共同訳の訳者まで、同じように誤訳し、チェックした人たちも見落としたのだろう。まだネストレ校訂本がなかった明治13年版だって「懼るる勿れなんぢ今より人を獲べし」と、ちゃんと訳しているのに、より正確な底本を使った後の人たちが誤訳とは。戦後間もない頃の口語訳はともかく、新共同訳や聖書協会共同訳まで同じように誤訳とは。)
これは想像だが、ルカは、「漁師が魚をとったら魚は死んでしまう」と思ったのかもしれない。自分でそう思ったのか、誰かがルカにそう言ったのか、ルカが属していた信者のグループの中でそういう話があったのか。
マタイもそうだが、ルカも間違いなくマルコ福音書を手元において福音書を書いているので、ルカ自身がマルコ福音書の記述を書き換えたと考えられる。
ブルトマンなどは、イエスが実際に「人間を捕る漁師」という発言をしたことに否定的でこの言葉を後の伝承と考えているが、ガリラヤ育ちの庶民イエスの口からそうした発言が出た可能性を完全には否定はできないと思う。イエスは「人間を捕る漁師」と言ったと伝えられていて(本当に言ったかどうかはともかく、そう伝えられていて)、最初の福音書マルコはそれを記し、マタイも同様に記したのだ。
それを、ルカは、漁師が魚を捕ったら魚は死んでしまうと思ったのか、マルコ福音書の記述を書き換えた可能性が高い。
ここは、伝えられたイエスの言葉がどのように変わっていったのか、イエスの言葉の伝承の変遷に関わる重要な箇所ではないか。
福音書は、それこそ、「原典において」すでに書き換えられていたと考えられる。それを他の福音書に合うよう「訳」していいんですかね? 日本聖書協会さん。
「聖書は原典において無誤である」と主張する人たちがいるが、原典において、原著者の手で、すでに書き換えられていたようだ。
無誤の原典て、いったい何?
(伊藤一滴)
ご参考:ルカ5:10後半のこれまでの訳
イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(新改訳)
「そして」(あるいは「すると」καὶ )が省略されているが、基本的に正しく訳されている。
すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。(口語訳)
原文にない「漁師」という語が使われている。
すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(新共同訳)
原文にない「漁師」という語が使われている。
聖書協会共同訳も同様
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