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非神話化9の2・イエス・キリストの復活2

新約聖書の使信(ケリュグマ)は、十字架につけられて死に、死から復活したイエスを証ししている。
だが、ブルトマンは、「キリストの復活は、それ自体全く、神話的な出来事ではないだろうか」と言う(『新約聖書と神話論』)。こうしたブルトマンの主張の一部を読んで、「ブルトマンはイエスの復活を否定している」と言う人がいるが、それは違う。否定したのではない。

ブルトマンは、イエスの十字架の死を人間的な死と見るべきではなく、世に対する神の解放的審判として、死を無力化する神の審判そのものとしていいあらわされていると考えるべきだという(同書)。

イエスの十字架によって死は無力化されたのだ。イエスの十字架は、死に勝ったのだ。
勝ったのだから、当然、イエスは死にとどまっていない。復活したことになる。

つまり、十字架の勝利の理論的帰結として、イエスは復活した、ということになる。

「ブルトマンはイエスの復活を否定している」などと、簡単に言ってもらっては困る。

イエスの十字架の勝利を信じ、「イエスの十字架の死によって私は罪からの解放された」と信じる者にとって、イエスの復活は信ずべきこととなる。復活が史実かどうかは問われない。

イエスの復活は、信じる者にとっての真実なのだ。史的な事実か否かではない。だから、イエスの復活の史実性を論じることに意味はない、ということになる。

ペトロ書簡(ペテロ書簡)として新約正典に収められた文書に、イエスの陰府への降下の話が出てくる。
もちろん、1ペトロ書も2ペトロ書も使徒ペトロの作ではない。ガリラヤの漁師ペトロにギリシャ語の読み書きができた可能性は非常に低い。また、ペトロに帰せられていても内容的にはパウロ書簡に似ている。これらの書はパウロ書簡の影響下にあった者が、後代にペトロの名で書いたものであろう。
十字架の勝利の理論的帰結として、イエスは復活した、ということになるのなら、「復活するまでの間イエスはどこにいたのか」という疑問が生じる。この答えがペトロ書簡に記された陰府への降下の話である。
ただし、これは後代の答えであって、パウロも、福音書の著者たちも、イエスの十字架と復活とを連続的にとらえていたと考えるべきだろう。イエスの十字架による救いとイエスの復活は不可分のものである。

(続く)

次は、洗礼の意義、復活したイエス・キリストとの出会いなどを予定

(伊藤一滴)

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