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非神話化7の2・奇跡をどう考えたらいいのだろう

ブルトマンは、奇跡を史実と信じるか否かは信仰上重要な点ではないと言う


ブルトマンの見解からは逸れるが、奇跡をどう考えたらいいのか、今の私の考えを述べたい。
ここで言う奇跡とは、聖書の奇跡も現代の奇跡もみな含めての奇跡である。


たまたま「Yahoo!知恵袋」で「イエスの奇跡は本当なのですか?」という質問を見つけた。
この質問に対する回答の一部に大変興味深い記述があったので、引用して紹介したい。

引用開始

Feik_BastaaRさん

2022/7/17 22:12

【追伸】現代にキリスト教信仰が残っている要因はこの、イエスの奇跡が本当だと強弁する姿勢が残っているからだ。イエスの奇跡で最大のものはイエスの復活。死んでよみがえったのが事実だとする。
そして「事実だからキリストを信じろ」と畳みかける。これを言うのは全てのキリスト教教派ではないが、福音派と称する聖書信仰狂徒らだ。
死んで甦ったのを事実を信じたとすると、次には教会の礼拝に行きなさいとなる。教会にゆくと牧師はじめ信徒らはにこやかに歓迎し、さて「指導」がはじまる。
奇跡のひとつを事実だと言ったら、いつのまにか毎週欠かさず教会に行って無料奉仕と献金をして生活指導を受ける身になっていた…そんな自分に気づくころには抜き差しならないクリスチャンになっていて、こんどは自分が奇跡を信じなさいと「伝道」してまわっている。
このようにキリスト教の聖書信仰というやつは小さな奇跡物語から始めて大きな獲物を捕る仕掛。

引用終了

出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12264894637

この【追伸】をお書きになった方は「聖書信仰狂徒」とまで書いておられる。被害者なのだろう。たぶん、「福音派」と称する教会で言われたことを信じ、ひどい目に遭われたのではないかと思う。

私の場合は逆だった。被害ではなく、福音派の牧師先生や信者さん方からたいへんお世話になった。一部、例外もあるが、私が出会った福音派のクリスチャンの多くは善良な人だった。
福音派が世間であまりいいイメージを持たれないのは、「福音派」を称する一部の原理主義者やカルトが熱烈に活動していて目立つからだろう。
医療や福祉や種々の分野で黙々と働いておられる善良な福音派は目立たない。他者に配慮せず極端なことを言い、派手な宣伝活動をする自称「福音派」は目立つ。目立つから、そっちが多数のように見えてしまう。自称「福音派」による常軌を逸した言行の数々は、一般の福音派も含めた穏健なクリスチャンにとって非常に迷惑な話だ。

福音派は(自称「福音派」も含めて)、聖書の奇跡を文字通り信じている人が多い。
前回も書いた通り私は「奇跡を史実と信じるか否かは信仰上重要な点ではない」と考えるから、その人が誠実にイエスの教えに従おうとする人なら、奇跡を文字通り信じることを非難などしない。
ただ、それは、古代人や中世人のような世界観だ。そういう世界観で現代を生きようとすると、中には、暴走する人が現れる。

恩人たちの信仰を悪くなど言いたくない。
福音派の人たちが、何も宣伝などせずに、各地で黙々と良い働きをしているのを私は見てきた。それは、すごいパワーだと思った。自動車にたとえれば、状況によってスポーツカーにもなり四輪駆動車にもなるようなイメージだ。高速道路でも極悪路でも、他の車がついて行けないようなパワーを発揮する。
だが、もし運転が下手な人が、そして自分は下手だという自覚もない人が、そんな車を運転したらどうなるのか。暴走し、大きな被害が出るだろう。だのに運転者は暴走している自覚すらない。周りが「危ない!止まれ!」と叫んでも、「私は正しい福音主義の信仰に立つから弾圧され、妨害されている」と思ってますますアクセルを踏むのではないか。
福音派の信仰は鋭い刃物にたとえてもよい。腕のいい職人ならよく切れる刃物でよい仕事をしてくれるだろう。たが、もし、刃物を使いこなす能力のない人が分かったつもりになって鋭い刃物を振り回したらどういうことになるのか。

そういうことが、「福音派」を称する一部で起きている。

奇跡を信じる人たちの暴走は怖い。陰謀論と変わらない。時には、狂気に近い。
良識を持って福音派の信仰を貫くためにはそれ相応の能力が求められる。まわりを見渡す能力、判断する能力、独善的にならないよう常に自らを省みる能力等々が求められる。

そうした能力を欠いた人が奇跡を信じて暴走するのは本当に怖い。では、奇跡は否定すべきものかと言うと、そうとも言えない。
前回も書いた通り、現代でも病気や怪我の奇跡的治癒が報告されている。その理由をいろいろ考えても、説明がつかない現象が残る。
説明がつかない現象は、科学が進む中で解明される日が来るのだろうか、それとも、科学の及ばない働きなのだろうか、私にもわからない。

私は、もちろん、聖書の記述はすべて文字通りの史実だなどと思ってはいない。だが、奇跡を全否定もできずにいる。
今の私は、病気治しなどの奇跡も含めてキリスト教でないかと思う。だから、そこが、ブルトマンの見解とはちょっと違う。

(続く 次回は本当に「杭(十字架)上の死」を予定)

(伊藤一滴)


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