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宗教二世問題から考える

安倍晋三射殺事件が起きて、安倍元総理と深い関係にあった統一協会(統一教会)の問題がマスコミを賑わしました。宗教二世らが声を上げるようになり、エホバの証人(ものみの塔の信者)の問題も語られるようになりました。

今のところ一般のマスコミはあまり取り上げていませんが、正統とされるキリスト教(特に「福音派」と名乗る教会の一部)で、統一協会やエホバの証人とよく似た問題が起きています。

統一協会、エホバの証人、「福音派」の一部(「聖霊派」の一部を含む)などには、強烈な原理主義信仰やカルト性があります。
自分たちは一貫した正しい教えを信じている、この教えだけが正しく、この教えを信じる者だけが救われ、他はすべて滅ぶ、といった考えです。自分たち以外に正しい信仰はなく、他のキリスト教の教派は本当のキリスト教ではない、と考えます。

こうした、原理主義者、カルト信者の一世も気の毒ですが、そうした家に生まれた二世には最初から選択の余地さえなく、とても気の毒です。二世は小さいときから、独自の宗教的価値観で育てられてしまうのです。

宗教を強制する親は、毒親の一種です。
過干渉、教育虐待、スポーツ強要の虐待、音楽強要の虐待などと似た「あなたのため」という虐待です。悪意があっての虐待ではありません。
親は子どものため、子どもの救いのためと信じて、子どもの人格や人生を破壊してゆくのです。


原理主義者やカルト信者の宗教一世の多くは、生活の中で何らかの困難をかかえ、救いを求めて入信したのでしょう。原理主義やカルトには、心の苦しみを麻痺させる鎮痛効果があるようです。ありもしないことをとことん信じ込む現実逃避で、現実の苦しみから逃げるのです。でも、それは一時の鎮痛であり、根本の治療ではありません。心の傷みを治すのではなく麻痺させるのです。麻痺して痛みを感じなくなって患部は悪化するという話はよく聞きます。統一協会、エホバの証人、「福音派」などの場合、嘘を信じることによる心の鎮痛効果がまさに「宗教は民衆のアヘン」として働いています。その「効果」を求めて入信する人が後を絶たないので、カルト宗教が続きます。長く続くのは、その教えが正しいことの証明にはなりません。

宗教一世たちには、信者でなかった時期があります。その時期に身につけた世の価値観と、信者になってからの価値観を、うまくつないで、どこかで妥協しながら自分を保っているようです。そうでもしないと、「聖書に書いてあることを書いてある通りに信じる」なんて不可能でしょう。
書いてある通り信じると言いながら、自分が信じているはずの教えを忠実に実践してはいません。文字通り実践するなら、世の富も地位もすべて捨てて聖書に従うべきだろうと思うのですが、捨ててませんね。この世の会社や団体等で働いて、そこでうまく妥協し、自分の身を守り、給料を貰い、自分の暮らしを守っています。口では「ユダヤ人も異邦人もありません、みな、ひとつです」なんて言いながら、何の疑問も持たずに、児童労働や人権上の問題のある労働で生産された疑いのある安価な外国製品を購入し、結果、搾取する側に加わっています。肝心なときにするりと逃げて、人のために指一本動かそうとしません。それを問うと、「みんなそうですから」と開き直ったり、屁理屈でごまかしたり、怒り出したりします。私は、そういうクリスチャンを何人も見てきました。
みんなそうだから自分もそうなら、何もクリスチャンである必要もないでしょう。
神の審きが怖いから、地獄に行きたくないから、表面的には、クリスチャンであり続ける。うまく世に妥協してますが、これくらいの妥協なら地獄の火の中に落とされずに済むだろうって、神様を相手に世渡り上手に振舞うクリスチャンたちです。

宗教二世はそうした妥協を知りません。幼児期から独自の宗教的価値観を刷り込まれるんで、うまくごまかしたりできないんです。親は、幼い子どもに、たぶん無意識に、自分もできない独自の理想を教え込み、子どもは純粋にその通りにしようとするんです。でも、そもそもが成り立たない教えですから、やろうとしてもできません。逃げ場がありません。

イエスの教えとは異質の、ある種の人たちが聖書から導き出した現代の律法主義が強要されています。
そうした律法主義を説く側は、自分はうまくごまかして、忠実に守っていません。

宗教二世の苦しみは数々あるのでしょうが、この、幼児期から独自の宗教的価値観を刷り込まれた、というのは、大きな苦しみでしょう。
成長し、気づいて、その宗教から脱出しても、何かの折に、過去のことがフラッシュバックのようによみがえることもあると聞いています。心の傷は深く、長引くようです。


このブログに、聖書のことや一部の教会の問題点を書くのは、読んだ人が考え、できれば目を覚ましてほしいと思うからです。

特定教派の立場から他の教派を攻撃しているのではありません。私は、先入観を持たずに聖書を読めばこう読める、という話はしますが、特定教派の教義を守る立場から語ったりはしません。

非常に狭い世界にいて、自分たちは「正しい聖書信仰」だと思い込んでいる人たちがいます。他と対話せず、他を知ろうともせず、誤解し、他者を非難している人たちです。その非常に狭い世界で二世問題も起きています。そうした人たちに、目を覚ましてほしいと思っているだけです。


「カルト思考原理主義者たちに救いはあるのだろうか? 彼らだけは絶対に救われないのではないか」と思った時期もありました。でも、中世の腐敗した教会にさえ自浄作用が働いたのですから、絶対無理だなんて言えません。

立場を異にする人たちが、何が正しいのかを求めながら、相互理解に向かっていける世界を願っています。

(レイチェル・ヘルド・エヴァンズ著『解明された信仰:すべての解答を知っていた少女が質問することを学んだ方法』はとても参考になりました。Rachel Held Evans 'Faith Unraveled: How a Girl Who Knew All the Answers Learned to Ask Questions' 残念ですが、日本語訳はないようです。)


誤解されるといけないので書いておきますが、福音派にはいいい人がたくさんいます。私もお世話になり、感謝しています。ただ、「福音派」と称する人たちの中に原理主義者やカルトも存在しています。彼らは、善良で穏健な福音派の人たちと違い、独善的・排他的・不寛容・攻撃的な人たちです。
同じ教会に、良識ある福音派の人とコチコチの原理主義者が混在していることもありますから、教派名や教会名だけで決めつけることもできません。

キリスト教系3大カルトについては、以下もご覧ください。
「私たちは正しい信仰に立つから非難される」
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2022/07/post-87b8.html

(伊藤一滴)

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