情欲をいだいて女を見る者は?
ネストレ・アーラント校訂ギリシャ語新約聖書28版から、また引用します。
さて、以前からかなり気になっていたマタイ5:28です。
引用開始
28ἐγὼ δὲ λέγω ὑμῖν ὅτι πᾶς ὁ βλέπων γυναῖκα πρὸς τὸ ἐπιθυμῆσαι αὐτὴν ἤδη ἐμοίχευσεν αὐτὴν ἐν τῇ καρδίᾳ αὐτοῦ.
引用終了
これも私なりに忠実に訳してみます。
「でも、私はあなた方にこう言います。誰でも女を情欲することのために彼女を見る者は、すでに彼の心の中で彼女に対して姦淫しているのです」
あまりにも直訳でぎこちないので、もう少しこなれた日本語にしてみます。
「でも、私はあなた方にこう言います。誰でも情欲を起こすために女を見る者は、すでにその人の心の中でその女を犯しているのです」
ἐπιθυμῆσαιという、「情欲すること」みたいな単語がギリシャ語にはあるんですね。日本語だと、「情欲することのために」では不自然なんで、「情欲を起こそうとして」、あるいは「情欲を目的にして」などの訳の方が適切かもしれません。
何の解釈も加えずに聖書を読むなんて不可能なんで、解釈も入ってしまいますが、「女性を最初から情欲の対象として見ることが姦淫なんです」という意味に取れます。これは想像ですけれど、「姦淫はいけませんと言っている人たちは情欲を目的として女性を見たことがないんですか?」って、イエスは言いたかったのかもしれません。
これまでの日本語訳を見ると、「情欲を抱いて女を見る者は~」という訳が多いです。過去の訳をそのまま踏襲しているのでしょう。でもこれだと、「情欲を抱く」のと「女を見る」のと、どっちが先だかよくわからず、「女を見て情欲を抱く者は~」という意味に受け取られる恐れがあります。
ちなみに、塚本虎二訳と新共同訳は「女」という語を「人妻」と訳してますが、「じゃあ、相手が未婚女性なら情欲の対象として見ていいの?」ってつっこまれそうです。人妻と訳すのは言語的にはともかく意味的に無理があるように思います。
クリスチャン男性は、「たまたま通りかかった女性を見て情欲を感じてしまった。ああ、これは姦淫の罪だ。罪深い自分は地獄に行くかもしれない」なんて悩まなくていいと、私は思っています。
ギリシャ語からは、イエスが問題視しているのは「情欲を起こすために女を見る」ことだと読めます。最初から女性を自分の欲望の対象として見るような、人間の尊厳を踏みにじる心の思いの否定だと読めます。私の読み方が間違っていなければ、ですけれど。
結論
マタイ5:28は、
「情欲を起こそうとして女を見るのは姦淫だ」、あるいは
「情欲を目的に女を見るのは姦淫だ」といった意味であり、
「たまたま女を見た結果、情欲を感じてしまったら、それは姦淫だ」という意味ではない、
と考えられます。
(伊藤一滴)
コメント