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「異端派」や自称「福音派」の偶像崇拝

偶像崇拝について思うことを書きます。

若い頃の一時期ですが、私は、寺や神社で偶像崇拝が行なわれているように思えて、寄るのをためらった時期がありました。でも、その後、いろいろと学び、お寺や神社の方のお話をうかがったりしながら、だんだんに考えが変わっていきました。
仏教や神道の歴史的価値や文化的価値の尊重といった思いが強くなったのです。

私の場合、子どもの時に聖書に出会い、強く心をひかれ、そのため欧米にばかり目が行って、日本の伝統文化やキリスト教以外の考え方の価値に気づくのが遅れました。
キリスト教にだってかなりの多様性がありますが、いつの間にか自分が聞いたキリスト教、つまり、欧米から入ってきた(特にアメリカ人宣教師が伝えた)教派の見解を標準のようにとらえてしまっていて、キリスト教が持つ多様性に気づくのも遅れました。
また、娯楽や、常識の範囲内での飲酒や、性的描写を含む作品、性的マイノリティーの立場などに、無関心どころか否定的でした。そうしたものも含めて人間の存在なのに・・・。
これらは、若かった自分にとっての損失でした。
特に、性的マイノリティーの方々を、聖書の教えに反する存在のように考えていたことを、申し訳なく思います。

その後、私は気づきました。
人も、文化的なものも、それが「聖書的」か「非聖書的」かなんて、簡単に2つに分けることはできないのです。だのに、クリスチャンの中には、何でも2つに分けて、「聖書的」なものだけに価値があり「非聖書的」なものは無価値と決めてかかる人たちがいます。それが原理主義的な二元論の発想なんです。
彼らが「聖書的に」とか「人間の価値観ではなく神様の価値観で」などと言うときの「聖書的」や「神様の価値観」とは、特定の教派や特定の牧師の考えであることが多いようです。ですから、違う教派の別の牧師に聞くと、まるで違う答えだったりします。聖書の記述には幅があって、読みようでさまざまな解釈ができてしまうのです。聖書の同じ箇所を引用し、まったく逆の主張になることもあります。
何が「正しい聖書解釈」なのか、何が「聖書的」で何が「神様の価値観」なのか、教会や牧師によって言うことがバラバラで、一貫性がありません。結局、最後に残るのは、自分の判断なのでしょう。

イエスの主張はパウロの見解に沿うように解釈され、それが教会の指針となり、宗教改革を経てプロテスタント独自の教義も形成され、ヨーロッパで展開され、アメリカでさらにリニューアルされています。

19世紀末~20世紀にアメリカからリニューアル版のキリスト教が日本に入ってきて、それを純粋で正しい聖書信仰だと思い込んでいる人たちがけっこういるのです。

そういう、アメリカ由来の「聖書信仰」の人たちの中に、福音派と名乗る人たちもいます。
福音派には温和で誠実で善良なクリスチャンが多数おられ、各地で良き働きをなさっています。私もお世話になってきました。私は福音派には敬意を持っており、福音派はみな駄目だなんて思ってません。
でも、「福音派」を名乗る人たちの中に、イエスの教えにない主張を重視している人たちもいるのです。

たとえば、
日曜礼拝参加義務、
牧師の権威主義、
絶対禁酒、
娯楽禁止、
逐語霊感論、
聖書無誤論(※)、
他教派との交流禁止、
性のタブー視、
性的少数者の排除、等々。

(※信仰と生活の規範としての無謬論ではなく、歴史的・科学的な面での無誤論です。)

彼らは、福音派というより自称「福音派」の原理主義者です。教えにないことを重視しながら、イエスの教えを軽んじています。悪い意味での、現代のファリサイ派です。
柔和のカケラもなくて、いつも怒っていて、いつも人の悪口を言っています。
「リベラル派の教会は間違っています。カトリックは間違っています。未信者は間違っています!」と、いつも悪口です。人を悪く言うことで自分たちを正当化しています。そして、その悪口の大部分は誤解や嘘や誇張です。

イエスの教えの頂点は何か、じっくり考えてみればいいのに・・・。
聖書の言葉で人を脅して自分たちのグループに引っ張り込むことではありません。
引っ張り込んだ人をさらに脅して「教会」から抜けられないようにして、金銭や労力を搾取することではありません。
自分たちの教派だけが正しく、他の教派や他の宗教などは誤りだと言い張ることではありません。
浅く表面的な知識で、自分の数百倍も勉強した人が熟慮の末に出した見解を簡単に否定することではありません。
困っている人がいても助けようとせず、指一本動かさずにうまく逃げて、そうした自分の態度を聖書の言葉を使って正当化することではありません。
社会問題に取り組んでいる人たちを馬鹿にし、「もうすぐ世の終わりが来るのですから、社会の問題に関わっても無意味です」などと言って、社会との関わりを拒絶することではありません。
子どもを地獄の恐怖で脅し、いつも神様から監視されていると思わせ、宗教二世にすることではありません。
聖書の中からあちこちつまみ食いのように背景や文脈を無視して引用し、自分たちのイデオロギーを正当化しつつ、都合の悪い箇所は無視することではありません。

事実を指摘されると火がついたように怒り出し、「私たちは正しい信仰に立つから弾圧されています!」などと言い張ることではありません。
(上記はみな、「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会」とか「正統的なプロテスタント教会」とか名乗る人たちに接して実際に私が見聞きした話や、信頼できる方々から得た情報によるものです。)


私は、

イエスの教えの中心にあるのは、

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、
等々、

そして、肝心なときに、イエスの求めに従うこと、

だと思います。

私が出会ってきた、教えの中心をしっかり踏まえたクリスチャンたちは、その人がリベラルであれ福音派であれカトリックであれ、イエスに従う人たちでしたから、当然、排他的になりません。他教派や他宗教との交流も対話も拒まない人たちでした。


自称「福音派」がお寺や神社の行事や儀式を「偶像崇拝」だと言っても、「そんなの偶像崇拝じゃないよ」って言いたくなるんです。

今の私はお寺にも神社にも行きますし、仏式・神式の葬儀にも出ます。焼香もするし手も合わせます。そういったことを偶像崇拝だとは思わなくなりました。伝統文化の尊重や故人への敬意は偶像崇拝とは違う、と考えています。

偶像崇拝とは「神でないものを神とすること」です。自分たちで神を作ることです。人間に過ぎない自分たちの考えで、「聖書的にはこうです」とか「神様の価値観に立てばこうです」とか断定し神を規定するのは、まさに神はこうだという創作です。このタイプの偶像崇拝は、頭の中で自分たちなりの神様を作ってしまう偶像崇拝ですから、目に見えず、危険です。
こうした偶像崇拝が、自称「福音派」、エホバの証人、統一協会などに見られます。(これらがキリスト教系三大カルトです。実際、この三者の思考や行動は似ています。宗教二世の悲劇まで共通しています。)

現代のプロテスタント主流派、一般の福音派(原理主義でない人たち)、カトリック教会などは、独自に自分たちの神様を作ったりしていません。つまり、偶像崇拝をしていません。

今日、キリスト教系の宗教で堂々と偶像崇拝が行なわれているのは、自称「福音派」と「異端派」くらいです。

(伊藤一滴)

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