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『聖書はもういらない』への富田正樹氏の書評に思う

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野原花子氏の前作『聖書はもういらない』の書評はあまりないようですが、牧師の富田正樹氏が、2021年3月13日に「気の毒としか言いようがないが、キリスト教会は警告の書として厳粛に受け止めなくてはいけない」として、書評を書いておられます。

https://ichurch.me/2021/2021/03/13/no-need-bible/

続編『私はもう祈らない』で、「教会や教派の選択を誤ったという問題ではない」と言う野中花子氏は、この書評を読んでおられないのでしょうか。

富田氏の書評を引用して紹介します。


引用開始

これは学問的にキリスト教の教義や歴史上の問題点を検証した研究書ではない。キリスト教会にマインドコントロールされ、人生をボロボロにされた被害を縷々綴った苦難の記録である。

宗教に心を奪われてしまった人が、最悪の場合どのような末路を辿るかを赤裸々に告白した警告の書としての存在意義は大きい。著者の味わわされた苦痛を思うと誠にいたたまれない。

おそらく文面から伺えるのは、著者が取り憑かれてしまっていたのは、キリスト教の中でも「福音派」と呼ばれるタイプの教会だろう。

このタイプの教会は、聖書の字面を「神ご自身の言葉」で一字一句絶対的に正しいと思い込み(その割には自分たちの解釈に都合の良い所しか引用しない)、自然な人間的感情さえも「この世的」と侮蔑し、わずかな疑問を抱くことさえ「不信仰だ」「サタンの誘惑だ」と徹底的に叩く。しかも彼らは悪意からそうするのではなく、心底善意からそうする。神から離れれば、死後、地獄の業火が待っていると信じているからである。

このような教会に深く関わってしまったのなら、著者によるキリスト教の害悪に対する訴えも「もっともだ」と頷ける。

ただ、キリスト教には「福音派」だけではなく、様々な教派、学派がある。聖書を字面だけ取り上げて絶対視したりせず、古代の文献のひとつとして批判的に研究する神学もあるし、神の存在さえも決して自明のこととはしない思索もある。

引用終了


私、一滴も、「聖書を字面(じづら)だけ取り上げて絶対視」なんてしないし、聖書は「古代の文献のひとつとして批判的に研究する」ものだと思うし、「神の存在さえも決して自明のこととはしない」立場です。

でも、私は頭から神を否定しているのではありません。
神を信じて誠実に生きた人たちの生き方に、神の働きを感じていますから。

福音派の名誉のために言っておきますが、すべての福音派が上記のような人たちではありません。善良で穏健で視野も広く、信頼できるクリスチャンだって多数います。ただし、福音派を称する人たちの中に、原理主義に近い人や原理主義者そのものもいるのです。一部はカルトです。マインドコントロールの手法を使っています。注意が必要です。その比率がどれくらいなのか、私にはわかりません。
原理主義者たちは、原理主義者(根本主義者、ファンダメンタリスト)と呼ばれるのをひどく嫌い、「福音派」と称するのですが、そうした自称「福音派」の原理主義者と一般の福音派とは分けて考えた方がいいと思います。


さらに、富田牧師はこうおっしゃいます。

引用開始

そもそも、キリスト(救い主)とされたナザレのイエスでさえ、死に際には「神さま、神さま、どうして私を見捨てたのですか!」と泣き叫びながら死んだと伝えられている。「神が何を考えておられるのかわからない」「神がおられるなら、なぜ私がこんな目に遭うのですか」というこの嘆きは、すべての人間の嘆きでもある。その嘆きに徹底的に寄り添ってゆくのもまたキリスト教なのだ。

であるから、この本を読んだ人が、ここに描かれた福音派の実態を見て、「ああキリスト教ってそういうものなのか」と思ってしまうとすればとても残念だ。

この方がもう少し別の教派、別の聖書の読み方をする教会なり牧師、信徒と出会えていたら、キリスト教にも色々あることがわかり、あくまで可能性に過ぎないが、ひょっとしたら救われたかも知れない。そこが悔やまれる。

一方、この本には、キリスト教を批判し続ける文面の合間に、聖書を生み出したイスラエルの地の、数々の名所の写真が散りばめられている。そこにはオマージュ、或いはリスペクトに近い感情さえ感じられる。ここに、著者の心に残る、なにか聖なるもの、美しいもの、真実なものを、今でも求めたい思いを感じ取ることができるように思うのは私だけだろうか。

「聖書はもういらない」。
それでもいい。聖書とは別のものでいいから、この方がこれからでも、何かちゃんとした素敵なものを見つけられることを願ってやまない。

引用終了


富田氏は「「聖書はもういらない」。/それでもいい。」とおっしゃっています。私もそう思います。(人類にとっていらないのではなく、野中花子氏の今の状況においてはいらない、という意味で。)
富田氏の言葉に野中氏への優しいまなざしを感じます。でも、そんな富田氏でさえ、
「この方がもう少し別の教派、別の聖書の読み方をする教会なり牧師、信徒と出会えていたら、キリスト教にも色々あることがわかり、あくまで可能性に過ぎないが、ひょっとしたら救われたかも知れない。そこが悔やまれる。」
と言うのですから、どこまでもキリスト教的な発想・視点から見てしまう限界も感じます。牧師という立場上、仕方がないのでしょうけれど。

野中花子氏は、「聖書やキリスト教から脱出することで救われた」のです。
もう一度いいます。

「聖書やキリスト教から脱出することで救われた」のです。

もし彼女が、別の教派、別の聖書の読み方をする教会なり牧師、信徒と出会えていたら、かなり違う展開になっていたことでしょう。でも、それを「救われた」って言うんでしょうか。

富田氏が、単に、「人生をボロボロにされずに済んだ」という意味で「救われた」という言葉を使っておられるのなら、別に目くじらを立てるような表現ではないのですが、この「救われた」というのは、キリスト教界では、ちょっと引っかかる表現なのです。それは、「キリスト教に入信した」「キリスト教の信仰を持った」という意味で「救われた」と言う人たちがいるからです。この意味だと、耳障りな言葉です。「非クリスチャンは救われていない」というクリスチャンたちの上から目線の、思い上がり、高慢さを感じる言葉です。まして、原理主義やカルトのマインドコントロール下にある状態を「救われた」などど言うのを聞くと、気分が悪くなります。
ある種のクリスチャンたちが好んで使う意味での「救われた」という言葉は、「未信者」という言葉と並ぶ、ひじょうに不愉快なクリスチャン用語です。
「クリスチャンであれ非クリスチャンであれ、良心に従って生きようとする人は皆、救いの内にある」というのが私の考えですから。


『聖書はもういらない』に載っているイスラエル各地の写真を見ながら、私も思いました。野中花子氏は、自分がいた教会から教えられたキリストではなく、歴史上のイエスを求めているのかもしれないと。

(伊藤一滴)

コメント

富田正樹氏について最近知りましたが、
この方は泥臭いイメージの牧仕では
なく、先生的な感じの牧師の当て字
があてはまると思いました。
現時点で信者ではないため
仕方ないと思いますが。

気になったニュースを載せてみます。

北朝鮮はこんな活動をしているようです。
https://www.zakzak.co.jp/article/20221122-LMQ2GF2RBJPUXGI6JCARSYA2X4/

自由民主党も隙が多いですね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e42a53a8f92bc3a618fdd5a8796c41b098815931

安倍元首相暗殺などについて
https://shikaoichurch.com/2022/07/22

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