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「旧統一教会の信者のみなさんへ」 碓井真史氏のメッセージ

以下の碓井真史氏のメッセージをネットで読み、すごく納得しました。紹介したいので、引用します。


引用開始

旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の信者のみなさんへ:愛と希望を届けたい

碓井真史 新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科 教授(社会心理学)、SC
8/10(水) 18:01


■旧統一教会(世界平和統一家庭連合)一般信者のみなさんへ

私達は、信者のみなさん個人を敵視していません。

攻撃も侮辱もしません。

そんなことをする人がいれば、その人が間違っています。愚かな人です。

全国のみなさんの教会では、「殺すぞ」と叫ぶ脅し、脅迫電話、街宣車での大音量による罵声などの被害があいついでいるそうですね。

とんでもない人たちです。自分が反対する団体には何もをしても良いと思っているのでしょうか。そんなことが許されるわけがありません。私たちは法治国家に住んでいます。

誰一人として人権を侵されてよい人はいません。


■ただ、知ってほしこと

ただ、知ってほしとは願っています。

この一か月、世界平和統一家庭連合に関する膨大な報道がなされています。ご覧になっていますか。不愉快になったり、悲しくなったりする報道内容もあると思いますが、せっかくの機会です。ぜひ、報道内容を知りましょう。

内部の人から見れば、誤解だと感じることもあるでしょう。一方、たしかに事実はその通りだとお感じの部分もあるでしょうか。

あるいは、捏造、フェイクニュースだとされている報道内容もあるでしょうか。

大丈夫です。日本のマスコミ、ジャーナリストも、専門家もネットユーザーも、それほど一枚岩ではありません。事実に反する情報が広がれば、誰かが「それはフェイクだ」と強く言うに決まっています。

だから、流れている情報の多くは嘘ではなく、真実もあるはずです。

激しい世間やマスコミからの攻撃の中で、みなさんも平常心を保てない部分があるかもしれません。どうぞご自愛ください。健康にご留意ください。

そして、報道の中から、真実を見つけてください。


■思い出していただきたいこと、そして愛と希望

世界平和統一家庭連合の一般信者の方々。そのほとんどの方は、まじめで誠実な方だと、私は知っています。家族を愛し、平和を願う人だと知っています。

きっと、すてきな人生を歩まれてきたことでしょう。幸せな家族。楽しい学校時代。活発な社会活動。多くの友人たち。充実した人生だったことでしょう。

今は、幸せでしょうか。ご家族やご親戚、昔からの友人たちとは、どんな人間関係が続いているでしょうか。

しばらく関係が途絶えている人たちも多いかもしれません。きっとみなさん、あなたのお帰りを待っていることと思います。

いわゆる宗教2世の方々。みなさんも、世界平和統一家庭連合だけでなく、それ以外の人達と交流していたとすれば、きっとそれぞれの場で大活躍していたことでしょう。

全ての人は愛されるために生まれてきたと、私は信じています。神はあなたを愛しています。献金額が多くても少なくても、神の愛は変わるはずがありません。

神は私たちに呪いではなく希望を与えます。献金額とも先祖のこととも無関係です。

みなさんが、愛と希望にあふれた人生を歩まれることを、願い祈っています。

引用終了

出典 https://news.yahoo.co.jp/byline/usuimafumi/20220810-00308811


統一協会(統一教会)だけではありませんが、世間が「カルト」と呼ぶ組織に加わった人の多くは、もともとまじめで、誠実な人なのだと私も思います。
世間の非難を受けると、「私たちは正しいから迫害される」と思うのかもしれませんが、一度立ち止まり、家族や親戚、昔からの友人、外部の人たちと話をすれば、気づくことがあるかもしれません。

碓井真史先生はこうおっしゃいます。
「全ての人は愛されるために生まれてきたと、私は信じています。神はあなたを愛しています。献金額が多くても少なくても、神の愛は変わるはずがありません。」
「神は私たちに呪いではなく希望を与えます。献金額とも先祖のこととも無関係です。」

碓井先生は心から神様を信じておられるのでしょう。そうでなければ、こうした言葉は出て来ないと思います。

全ての人は愛されるために生まれてきたのだと、私も思います。互いに愛し、愛され、向上するために生まれてきたのだと。

人は、死の直前まで、自分を変えることができると、私は思います。
互いに愛し、愛され、向上するのに、もう遅いというのはないと思います。

なぜある人たちに苦難が集中してしまうのか、今の私には答えられません。でも、「私はああならなくてよかった」と思うのではなく、「私の代わりにあの人たちが苦難を背負った」と考えて、自分はそれにどう応えることができるのか、求めてゆきたいのです。

「キリストは今もおられる」というのなら、キリストは豪華な神殿や宮殿にではなく、この世界の最も小さい人たちの一人ひとりと共に、その中にこそ、おられるのでしょう。

(伊藤一滴)

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