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聖書の食い違い、それぞれ

1.聖書に出てくる出来事や発言が食い違う(微妙に、あるいはかなり)

2.聖書の各文書の著者の考え方が食い違う(主張の違いは、教義にかかわるものもある)

3.聖書の記述が歴史的・科学的な事実と食い違う

4.新約聖書に出てくる旧約からのの引用が、旧約のその箇所と食い違う(微妙に、あるいはかなり)

私が思うこの4通り以外にも、食い違いがあるかもしれません。
また、食い違いではありませんが、文法的な誤りもあります。


食い違いがある場合、その1つが正しいなら他は間違いですし、みな間違いかもしれません。みな正しいというのはありえません。明らかに食い違っていますから。

「同じ事実も見方によって表現が違うときがある」と言う人もいますが、それは「一字一句に至るまで神の霊感によって書かれた無誤の聖書」という主張と両立しません。「個人的な感想」や「記憶違い」なら、表現が違うこともあるでしょう。でも、「十全霊感によって書かれた無誤の聖書」は「個人的な感想」と同程度のものでしょうか? 「記憶違い」もあるのでしょうか? しかも、無誤なのになぜ文法上の誤りがあるのですか?

これまでも様々なつじつま合わせがなされてきましたが、「イエスが十字架につけられたのは過ぎ越しの食事の前か後か」といった、つじつま合わせのしようのない矛盾もあります。それでも強引につじつま合わせをしようとする人たちがいますが、どれも聞くに堪えない、むちゃな話です。

出来事なら、まだ、いろいろ言いようもあるのでしょうが、各文書の著者の考え方まで食い違っています。主張が違うのです。パウロの手紙とヤコブの手紙は矛盾しないと言うのはかなり強引な解釈ですし、マタイ福音書は律法を重んじ良い行ないを重視しているのに、パウロは律法の行ないではなく信仰によって救われると言い、考えが違います。しかもマタイは十字架の贖いについてまったく言及していません。マタイには、イエスの十字架の死は私たちの罪の身代わりだったとか、その贖いを信じる者は救われるといった考えはなかったのでしょう。著者の考え方がかなり違うのです。

歴史的、科学的な事実との違いはすでに多く語られていますので、そちらに譲ります。

新約聖書に出てくる旧約からの引用と旧約聖書のその箇所との違いは、引照付きの聖書をご覧になれば、誰でも確認できます。これから買うのなら引照付きをおすすめします。
私は、引用の食い違いについて、「聖書は無誤」と主張する人たちから納得のいく説明を聞いたことがありません。リベラルな立場の人だと、「新約聖書の著者たちはふだん使っている七十人訳から引用したのです。記憶で引用したのか、不正確な引用もあります」と説明してくれますけど。

無誤の聖書に不正確な点があるはずがないという先入観は、事実を見る目を曲げてしまいます。

そして、「十全霊感によって書かれた聖書は無誤である」といった考え方自体、聖書的ではありません。聖書のどこにもそんなことは書かれていないからです。つまりそれは、人間が作った人間の考えの1つに過ぎません。「聖書はすべて神の霊感によるものであって~」と書いてあっても、「無誤である」というのは別の話です。(※)

(伊藤一滴)


※「聖書はすべて神の霊感によるものであって~」(2テモテ3:16)と書かれた時代、新約聖書はまだなかったので、ここでいう「聖書」は新約を含みません。著者が使っていた聖書は七十人訳でしょうから、旧約聖書続編も含めて「聖書」となります。続編の部分は聖書ではないと、著者は一言も言っていません。また著者は、「聖書とはヘブライ語で書かれたものだけ」とも言っていません。仮に、聖書とはヘブライ語で書かれたものだけなら、後の新約聖書は聖書ではないということになります。
(ちなみに、1テモテ書も2テモテ書もパウロの名で書かれた疑似パウロ書簡です。パウロが自分で書いたものでも口述筆記させたものでもありません。後にパウロの手紙という形で別人が書いた文書です。今日、まともな聖書学者で、テモテ書の著者はパウロだと言う人はまずいません。)

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