キリスト教の本質は弱者のルサンチマン?(再掲)
学生時代にニーチェに触れ、キリスト教の本質を「弱者のルサンチマン(弱者の憎悪)」とする見解にぎくりとしました。
キリスト教徒の中には、本当に、「ルサンチマン」としての「信仰」を持つ人が一定数いるんじゃないかと思いました。
「私は聖書を信じ、イエス様を信じている。イエス様が十字架で罪を贖ってくださったのだと信じている。だから私は天国に行く。私を侮辱し、ひどい扱いをしている人たちがいるが、彼らは、今はこの世で栄えていても死後にさばかれて地獄に落ちる。そこで永遠に焼かれる。そうならないよう、彼らが私の話に耳を傾け、悔い改めるよう祈る」
一見「正統信仰」のようだけれど、それって、イエスが人々に伝えようとした教えなんだろうか?
それは、弱者の側の強者への憎悪、虚栄、仮想的な優越感や有能感・・・・ではないんだろうか。
ルサンチマン(憎悪)がキリスト教と不可分なものであるなら、キリスト教は愛の宗教ではなく憎悪の宗教ではないのか。
この世において勝ち目のない弱者が、自分を「正しい信仰を持つ者」とし、この世の強者に対して憎悪や虚栄のこもった仮想的な優越感や有能感をいだく。実際は、その弱者は本当に弱いのであり、劣っているのであって、優越でも有能でもないのだけれど、優越・有能の仮想を信じて自分を保とうとする。この世の強者に対して、上から目線になって、見下して、本当は自分の方が上なんだ、自分はイエス様を信じているのだから、こっちには神様がついている、永遠の命があるんだと信じ込む。
それが、キリスト教の本質?
もしキリスト教がその程度の宗教なら、キリスト教が説く神は死んだ。もうすでに死んでいる。
学生の頃、そんなことを考えていました。
このルサンチマン説は、すべてのキリスト信者に当てはまるわけではないけれど、「正統信仰」を自称する原理主義やカルトには当てはまるのではないかと思えてきました。
(一滴)
2019-10-02掲載分、ここに再掲
ニーチェ著『善悪の彼岸』、同『反キリスト者』(アンチクリスト)参照
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