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善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ない?

「福音派」と名乗る人の中に、「信仰の論拠は聖書だけです。人は信仰によって救われるのです。善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ありません」と言う人がいた。

そうだろうか?

前回も書いた通り、「信仰の論拠は聖書のみ」とは、聖書のどこにも書かれていない。
旧新約全体の、どこにもない。
つまり、聖書的根拠がない。

よく、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張の聖書的根拠としてローマ書の次の箇所を挙げる人たちがいるが、ここから導くのは無理があると私は思う。

「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28 新改訳初版 以下同)

ここで言われているのは「義と認められる」(義とされる)ことについてであって、「信仰の論拠」について論じた箇所ではない。また、「義と認められる」のは「信仰による」とあるが、「信仰のみによる」と限定もしていない。ここは、パウロが「私たちの考え」を述べた箇所で、イエスはこう言っているというのでもない。

ローマ書3:28を根拠にして「信仰の論拠は聖書のみ」と言い切るのは、幾重にも無理があると思う。

聖書には食い違いが多いが、このローマ書3:28のパウロの言葉と見解を異にする箇所がヤコブ書にある。

「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」(ヤコブ2:24)

「人は行ないによって義と認められる」「信仰だけによるのではない」という。

ルターにとって、ヤコブ書は都合の悪い書だった。だからルターはヤコブ書の正典性を認めず、使徒性のないものとし、わらの書簡とまで言って価値のないものとした。

私の手元に日本語版のチェーンバイブルがある。正式には「聖書新改訳 注解・索引 チェーン式引照付」で、1980年代にいのちのことば社から出たものだ。やたら値段が高かったが便利なものだ。注解は、当然福音派の立場から書かれているが、ヤコブ 2:24の注解にはこう書いてある。

「行ないのない信仰は人を救うことができない。そのような信仰は本当の信仰ではないからである。」

この注解を書いたのは日本人の福音派の先生だろうが、その先生ははっきり「行ないのない信仰は人を救うことができない」「本当の信仰ではない」と言っている。

「善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ありません」という主張は、こうした福音派の注解に示された見解にも反している。
カルト思考原理主義の自称「福音派」を、福音派の一派とみなしていいのかどうか疑問だし、そもそもキリスト教なのかどうかさえ疑問に思う。


あなた方。
自称「福音派」の原理主義者やカルトをやめて、普通の福音派になったらどうですか? 一般の福音派はいい人たちですよ。一般の福音派は世界の平和や人々の幸福を願い、愛の心で他者に接しています。
あるいは、プロテスタントの主流派でも、カトリックでも、他宗教でも無宗教でもいいですよ。(他宗教の場合はカルトでない宗教にしてください。)
絶えず張りつめていた気持ちがかなり楽になることでしょう。

ファリサイ派(パリサイ派)を思わせる教条主義に縛られて生きることが、イエス・キリストに従うことになるのでしょうか? それが救われた生き方でしょうか?

本当に神様がおられるのなら、神様は良心に従って生きようとする人を地獄に突き落としたりなさらないと、私は思いますけれど。

(伊藤一滴)

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