「日曜の安息日を守れ」という聖書的根拠はない
「福音派」と称する人たちの中に、
「日曜日は主日です。安息日です。労働はせず、礼拝に参加するのがクリスチャンの義務です」
みたいなことを言う人たちがいます。
児童、生徒、学生らには、「日曜の学校行事に参加するのはよくないことです」とか「日曜日に入学試験を行なう中高や大学を受験すべきではありません」とか「日曜出勤がある会社には就職すべきではありません」とまで言う人たちがいます。
私は、「日曜日は人のためにあるのであって、日曜日のために人があるんじゃない」って思いますけどね。
自称「福音派」は、「信仰の論拠は聖書のみ」で「聖書に書いてあることを書いてあるとおりに信じます」なんて言いながら、聖書的根拠のない日曜礼拝の義務を信者に課しています。
(別の話ですが、これまた聖書的根拠のない「絶対禁酒」を主張する教会もあります。ヨハネ福音書には、イエスが水をぶどう酒に変えた話が書いてあるのに! もし絶対禁酒なら、なぜ水をぶどう酒にしたのでしょう。)
イエスは「日曜日を安息日として守りなさい」と教えましたか?
そんな話はまったくないですよ。
十字架で死んだイエスは日曜日に復活したと信じられ、早い段階から日曜が主の日とされて信者が集まっていたようですが、聖書のどこにも土曜日の安息日が日曜日に変更されたという記述はありません。
信者に恐怖心を与えてマインドコントロール下に置き、巧みに支配し、搾取し、精神的な虐待を加える「教会」があります。原理主義者やカルトの「教会」です。明らかにイエスの教えに反する「教会」が、「福音派」「福音主義」「福音的な教会」「正しい聖書信仰」「正統的プロテスタント」などど称していることもあります。福音派の団体に加盟していることもあります。
信者や外部の人がそうした「教会」の問題点に気づいて指摘しても、改めるどころか、指摘した人が神に逆らっているかのように言われるのです。原理主義教会やカルト教会の指導者たちは、自分たちは正統であり真理の側だと思い込んでいますから、指摘されても改めません。多数の人から強く非難されても「正しい信仰だから弾圧される」と思うだけです。(そのいい例が『「信仰」という名の虐待』という冊子への反応です。紙の版は入手困難になりましたがkindleで読めます。)
礼拝に出席しないことも罪とされ、「教会」に縛られるのです。事情で礼拝に行けない人が罪悪感を覚えるようになっています。おかしいのではないかと思っても、一度植え付けられた意識からなかなか抜けられません。
そんな「教会」で礼拝を守るくらいなら、行かない方がましなのに!
歪んだ「教会」に行かないことは、罪でも何でもありません。
「教会」を去った信者は、「背教者」と言われるかもしれません。「悪魔(サタン)のわなに落ちた」とか、「反キリストの側についた」とか、「救いから離れ、永遠の地獄(ゲヘナ)へ向かった」とか、「最初から救われていなかった」とか。
私も、原理主義者やカルトたちからいろいろ嫌なことを言われてきたんで、彼らが言いそうな言葉の見当がつきます。
何を言われようが心配はいりません。彼らの脅しはみな嘘ですから。
彼らの言葉は、神の言葉の取り次ぎではありません。人間の言葉、それも嘘の言葉です。嘘を言って脅しているだけです。
なぜ嘘だと断言できるのか。
それは、彼らは「イエス様を信じます」なんて言いながら、新約聖書に示されたイエスの教えに反することばかり教えているからです。聖書を使いながら、イエスが人々に伝えようとしたメッセージを反対にしているからです。
新約聖書のイエスの発言に、罪や悪魔や地獄の恐怖で一般の人を脅す箇所などありません。日曜礼拝を義務付ける言葉もありません。
信者を脅して自分たちの「教会」に縛り付ける人たちは、イエスの側ではありません。むしろ彼らは「偽預言者」や「偽善な律法学者やファリサイ派(パリサイ派)の人」に似ています。
イエスから厳しく非難された「偽預言者」や「偽善な律法学者やファリサイ派の人」を、「自称「福音派」の牧師」と入れ替えてみると、ピタリと当てはまります。「原理主義者やカルト」と入れても、ピタリです。(参照、マタイ7:15~22 マタイ23章ほか)
福音派には穏健で善良な人もたくさんいますが、「福音派」と名乗る人たちの中にはコチコチの原理主義者やカルトも混じっています。
いい人たちとめぐり会えればいいのですが、そうでなければプロテスタント主流派(メインライン、リベラル)やカトリックの教会で話を聞くのも方法でしょう。プロテスタント主流派やカトリックはエキュメニズム派とも呼ばれ、理性的な人が多く、初めての訪問者をいきなり勧誘したりしませんし、狂信的な話もありません。カルト化の話も聞いたことがありません。
エキュメニズム派の教会に行けば、違う立場の牧師や司祭からかなり違う話を聞くでしょう。
イエスが「天の父」と呼んだ神が本当におられると仮定してみます。
天の父である神は、日曜礼拝に行けない人をそれを理由に地獄に落としたりするのでしょうか?
本当に神がおられるのなら、「神はそんなことはなさらない」と私は断言できます。
新約聖書のイエスの言葉を、素直に、じっくり読んでみてください。
イエスは「偽預言者」「偽善な律法学者やファリサイ派の人」らには厳しいのですが、一般の人を脅したりしていません。
イエスの言葉を、いったんパウロというフィルターにかけ、さらにルターやカルヴァンというフィルターにかけ、さらに自分が属する教派の教えや牧師の見解というフィルターにかけて、そうやって、何度も濾過してから読む人たちがいます。
そんな「目黒のサンマ」みたいな、味も栄養も濾し取るようなことをしないで、福音書に記されたイエスの言葉を素直に読んでみてください。
イエスの教えは、律法主義の束縛からの解放の教えです。神を愛し人を愛する教えです。
原理主義者やカルトによる現代の律法主義の支配は、イエスの教えと方向が正反対なのです。
目を覚ましてください。
(伊藤一滴)
こちらも同じ考え方かも?
https://yeshua.hatenablog.com/entry/2018/04/25/121054
https://yeshua.hatenablog.com/entry/2019/08/21/122915
投稿: たけ | 2021-09-19 15:18
キリスト教というより「教派教」(または「教会教」)みたいな人がいます。
「イエス様の教え」なのか「歴史の中で生じたその教派(またはその教会)の教え」なのか、いっしょくたにしないで、分けて考えたほうがいいと思うのです。
投稿: 一滴 | 2021-09-21 16:12