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「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」との食い違い

ある人たちが言うように聖書66巻は無誤無謬と仮定してみます。そうすると、「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」が食い違うとき、どちらが無誤無謬なのか、という問題が生じます。

高校に入ってから、旧約と新約が1冊になった聖書を買いました。1970年代の末でした。買ったのは新改訳聖書(初版)で、欄外に引照箇所が示してある便利な聖書でした。私は、新約聖書を読みながら、旧約からの引用があれば、旧約のその箇所と読み比べていました。
「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」は、少し違ったり、かなり違ったりしました。
(「聖書に矛盾はない」と言い張る人たちは、ご自分で、「新改訳聖書」の引照箇所を一つ一つ参照していただきたい。)

当時の私はなぜ食い違うのか分かりませんでしたが、後から理由を知りました。

新約聖書の中の旧約からの引用の多くは、マソラ本文をそのまま訳したものではなく、「七十人訳ギリシア語聖書」や、それを一部変えたものなのです。

七十人訳と、旧約のヘブライ語(マソラ本文)とでは、かなり異なる箇所もあります。
イエスの時代も、その後も、七十人訳が使われていました。そして七十人訳は新約聖書にも引用されました。引用されているのですから、新約聖書の執筆者たちも七十人訳を使っていたのです。
新約聖書が無誤無謬なら、引用された七十人訳も無誤無謬なのでしょうか?

「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」との食い違いをどう考えたらいいのでしょう。
どちらが無誤無謬なのですか?
両方ですか?
誤りなき神の言葉が2通りあるのですか?

納得のいく答えを聞いたことがありません。


七十人訳と旧約のヘブライ語との食い違いだけでなく、新約聖書に引用された七十人訳は、七十人訳そのものと少し違っていたり、かなり違っていたりすることもあります。
神の霊感によって書かれた無誤無謬の聖書で、どうしてそんなことが起こるのでしょう。
今は失われた七十人訳の別の写本からの引用なのか、記憶で引用して間違えたか、わざと一部を変えたのか?

本がどこにでもあるような時代ではなかったし、今のような製本ではなく巻物だった時代、特定の箇所をすぐ開いて参照するのは大変だったことでしょう。失われた写本から引用された可能性も否定はできませんが、新約聖書の文書の執筆者たちが記憶で引用して不正確な引用になった可能性があります。あるいは、何か意図があってわざと書き換えた箇所もあるのかもしれません。

不正確な引用やわざと書き換えたのかもしれない箇所も、神の言葉であり、無誤無謬なのですか?

聖書は原典において無誤って?
無誤の原典て?

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「聖書は原典において無誤である」という主張は、「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」とに食い違いがみられるという点からも、最初から破綻しています。

(伊藤一滴)

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