「福音派」・エホバの証人・統一協会は似ているという
「福音派」・エホバの証人・統一協会は似ているという仁保裕介氏の見解を引用します。
(出典は仁保裕介氏のブログ「真実なクリスチャンライフを求めて~自由な祈りのために」です。なお、私は福音派と原理主義を分けて考えていますが、仁保氏は広い意味で福音派という言葉を使っておられるようで、私が原理主義と呼んでいるものも福音派としています。)
2016年07月21日付で、
「終末の神の裁きが近い」と人集め
というタイトルです。
引用開始
(略)キリストのからだではない、カルト的な傾向を見せるグループの誘いをよく耳にします。既存の教派教団の制度的な教えの中にも、入って来ています。
現に私が40年前に受けた福音派の信仰教育と、エホバの証人の子供教育はよく似ていたようですし、統一教会のように自論を曲げずに論破した気になる熱心さも似ていました。また、客観性を受け入れず、自分の家族に対しても社会生活でも、他人の人生を聖書で責めて否定し、独善的になって人を傷つけているのに、その加害性や当事者意識が無いところが同じです。
根底に他者否定があり、それで成り立っているところが共通です。そもそもの成り立ちが、伝統的教会への批判や否定から始まり、自分の立場の確認のために伝道しているところがあります。(以下略)
引用終了
出典:http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52309914.html?ref=popular_article&id=1436590-316500
私も、かつて、自称「福音派」や自称「純粋なキリスト教」の人たちから嫌なことを言われたり、いろいろ嫌な目にあわされたりしました。仁保氏が上記でおっしゃることは、私の経験からも、一つ一つ当たっていると思います。
「福音派の信仰教育と、エホバの証人の子供教育はよく似ていたようですし、統一教会のように自論を曲げずに論破した気になる熱心さも似ていました。」
氏がおっしゃる福音派(私が言う自称「福音派」の原理主義者)とエホバの証人は、たしかに似ています。
原理主義者は、マインドコントロールのような手法を使います。この教えから離れたら地獄に行くと思い込まされ、抜けられなくされるのです。
客観性を受け入れません。そして持論を曲げません。「聖書は最初から66巻です」「聖書は無誤無謬です」「進化論は間違っています」みたいに最初から答えがあるのです。ものごとを客観的に考えるのではなく、自分たちの答えに合致するように事実を解釈します。時には、事実をねじ曲げます。
家族に対しても、家族以外に対しても、聖書の言葉で人を責めます。聖書は救いの言葉というより人を責めるための道具のようです。「それは罪です」「そういう考えの人は地獄に行きます」「罪から来る報酬は死であると聖書に書いてあります」といった言葉がしょっちゅう口から出てきて、聖書を引用しながら罪や地獄で人を脅します。
自分がどれほど独善的なのか、人を傷つけているのか、まったく気づいていません。自分の言葉や行動が周りを困らせている原因なのに、自分が加害者だ、当事者だと思っていないのです。それを非難されると、「私は正しい聖書信仰に立つから非難されている。預言者たちもイエス様も使徒たちも正しいから迫害された。私もそうだ」なんて思ってしまうのです。
「地の塩、世の光」と、向いている方向が逆です。 根底に他者否定があるようです。この他者というのは人間だけでなくて、自分たちなりの「信仰」の外にあるものすべてです。社会活動、文化、科学、教育・・・・、外はみな「この世」属するもので、否定すべきものなのです。
社会活動に参加するのは神の国と神の義を第一にしていないからクリスチャンにふさわしくない。この世の文化には異教や無神論の影響があるからクリスチャンにふさわしくない。科学の中には進化論などの間違った考えが入り込んでいるからクリスチャンにふさわしくない。地上の価値観を教える教育はクリスチャンにふさわしくない。
徹底した他者否定です。自分たちの「信仰」以外の否定です。たとえキリスト教であってもエキュメニズム系(リベラルなプロテスタントやカトリック)に否定的で、憎悪むき出しの罵詈雑言を浴びせる人もいます。自分たちの解釈による「聖書信仰」の外の世界は価値がない、否定すべきだと思っているのです。
「そもそもの成り立ちが、伝統的教会への批判や否定から始まり、自分の立場の確認のために伝道しているところがあります。」これも、その通りです。
彼らは「福音的な教会」、「福音派」、「福音主義」、「正しい聖書信仰」、「正統的プロテスタント」などど自称します。自分たちを正しいプロテスタントを受け継ぐ教会だと思っているのです。
16世紀の宗教改革が伝統的教会への批判や否定から始まっている以上、プロテスタント(自称も含めて)に既存教会への批判や否定の精神があるのは当然と言えます。さらにキリスト教の起源まで遡れば、キリスト教の発生そのものが、古代ユダヤ教の律法による束縛の批判的克服を目指したものであったと言えますから、当然、キリスト教は最初から批判的宗教だったのです。
福音派の場合、特に、19世紀~20世紀初頭の自由主義神学・高等批評学の行き過ぎと思われる見解への批判が出発点だったのでしょうが、それこそ、批判が行き過ぎて、硬直化した原理主義に堕してしまった人たちがいます。私は、それはもう福音派とは呼べないカルト思考だと思うので、「福音派」と自称する原理主義者と呼んでいます。原理主義者の中には、キリスト教と呼べるのかどうかも疑問なカルトもいます。原理主義者は「自分の立場の確認のために」批判的伝道をし続けるのです。批判のための批判ですから、批判する相手がいなくても批判し続けるのです。対話すれば、それ以上批判できなくなるかもしれないので、対話しません。対話の呼びかけや説得に聞く耳を持ちません。批判こそが自分たちの存在意義なのです。エキュメニズムに対しては「否定あるのみ」です。狭い世界の中にいて、「カトリックは聖書にないリンボ界を教えているので間違っています」「マリア像を拝んでいるので偶像崇拝です」といった嘘まで言って非難するのです。嘘です。一般のカトリック信者は、リンボ界を信じているどころかリンボ界という言葉さえ知りません。マリアに対し「共にお祈りください」とお願いはしても、それは「お願い」であって像そのものを拝んだりしていません。対話しない人たちですから、実際のカトリック教会ではなく自分たちが頭の中でこしらえたカトリック教会を非難するのです。「悪口満載のお説教をする牧師達」が本当にいました。私も嫌な目に遭いました。ほとんどが自称「福音派」で、一部、他の人もいました。
「伝統的教会への批判や否定」がすべて悪いわけではありませんが、批判や否定をするのであれば客観性が必要になります。つまり、井の中の蛙が生半可な知識で外の世界を批判・否定するのではなく、外の世界を客観的に見る必要があるのです。それが出来ないのなら、批判は慎むべきでしょう。
また、そもそも自分たちの出発点はどこにあったのか、その団体の初期の理念から逸脱しないためには、出発点の確認も、常に必要となるでしょう。
(伊藤一滴)
追記 仁保氏は統一教会と書いておられますが、私はこの団体を教会と呼ぶのをためらっており、統一協会と書いています。変換ミスではありません。また、カルト思考原理主義者のことは、かぎ括弧をつけて「福音派」と書いたり自称「福音派」と書いたりして、一般の福音派と区別しています。一般の福音派には善良な人が多く、私も親切にしていただき、お世話になってきました。私は両者を分けて考えています。
追記2 キリスト教系の異端とカルトについて、ふみなる氏のサイトにある「カルト化する教会」が参考になります。
https://note.com/fuminaru/n/nf753d3854511
追記3 仁保裕介氏とふみなる氏の見解はパソコンで検索しました。
スマートフォンやタブッレットだとうまく検索できないことがあるので、それぞれ、
「終末の神の裁きが近い」と人集め 仁保裕介
カルト化する教会 ふみなる
で検索してみてください。
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