誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。
また、「metanoiaxの日記」から引用します。
引用開始
2017-07-19
誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。
クリスチャンの方は、神様に従いたい、イエス様の教えに従いたい、と思っていらっしゃる方が殆んどなのだと思います。
そう思った時・・・・
はて?・・神様は何とおっしゃているのだろう・・
イエス様は何を教えていらっしゃるのだろう・・・
と、思うのは自然な流れだと思います。
そして次に、・・・
イエス様が何をおっしゃているかを知るために、聖書を読む、司祭や牧師の方の話を聞く、聖書について書かれているものを読む・・・などの行動を、大抵の方が起こされるのだと思います。
しかし、聖書を読んでみても、いまいち書いている内容が良くわからない・・・
よし、それなら聖書に書いている事を解説してくれる司祭や牧師の方や聖書学者のお話を聞こう❗・・・・となります。
ところが!
司祭と牧師の方のおっしゃる事が違う・・・
牧師の方と、聖書学者のおっしゃる事が違う・・・
こちらの牧師の方と、あちらの牧師の方のおっしゃる事は180度違う・・・
いったい、どの解説が本当なの?
どの解説が、イエス様の教えなの?
・・・・と、なります。
「これがイエス様の教えです」
「聖書に書いてある事はこうです」
と、いうプロの方の教えが、おびただしい程にあるのが、今のキリスト教の現状です。
こちらのキリスト教と、あちらのキリスト教では、全く違う正反対の教えをしているのが、現在のキリスト教です。
こうなると、信徒側としては、自分で納得出来る教えを「自分」で、選ぶしかありません。
仕方ないから、自分でアレコレ調べて、納得がいく解説を探さなくてはなりません。
どの牧師の方も、聖書学者も、自分達の解釈が正しく、他の牧師の方や聖書学者の解釈は間違えている・・・と、おっしゃるのですから、「判断」は信徒がするしかありません。
「自分の考えでなく神様の教えを・・・」
「自分中心の判断でなく神様中心の価値基準を・」
と、言ったところで、その神様の教えが、これだけプロによって言われる事が違うならば、最終・・・
「自分の考え」で、納得のいく解説を選ぶ。
又、当たり前ですが・・・
「自分中心の判断」でしか納得するものは選べない・・と、いう事になります。
そうしなければ、イエス様の教えを知る事さえも出来ないのです。
私は、自分が腑におちた解説やお話の中の、
「イエス様の教え」にしか従いたくありません。
おそらく、皆様も、そうなのだと思います。
と、いうことは、つまり・・・
最終的には、
「自分の納得」
「自分の意志」
「自分の考え」
どこまでもいっても、そこには、
「自分」があるのだと思います。
(脅しがない限りは・・・)
そして、それは、とても素敵な事だと・・・
私は思っています。
引用終了
出典:http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/07/19/022508
私、伊藤一滴も、何が正しいキリスト教なのか、ずっと考えてきました。
考えに考えて、たどり着いた結論を、このブログにも何度か書きました。
「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。ですから、世には無数の正しいキリスト教があります。
「自分が属する教派の教会の主張」も、自分でそれを選んだのなら「自分の見解」です。
「metanoiaxの日記」にあるとおり、「最終的には「自分」が、そこにいる」のです。
どうすることが神の御心にかなうのか、判断をせまられる自分が、決断する自分が、そこにいるのです。
(伊藤一滴)
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