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創作 あるクリスチャンの告白2

実は私も、保守的な「福音派」のクリスチャンホームの出身なんです。

福音派と名乗る教会は、いろいろですね。教会によってはおだやかで善良な人たちも多くて、そうした人たちとは今もおつき合いがありますが、私の一家が所属していたのはとても排他的な教会でした。今思えば、それは、社会に対して閉ざされた独自の世界で、他派のキリスト教にも閉ざされた世界でした。

私が高校生のときでした。クラスの仲間の一人が交通事故で亡くなりました。雨の夜、オートバイでカーブを曲がり切れずにガードレールに突っ込んだのです。
牧師先生にお話しし、お祈りしたいと言ったら、
「すでに死んだ未信者のために祈っても無意味です。生きているうちにイエス様を信じなければ救われないのです。それに、正しい聖書信仰に立てば、死者のための祈りは否定されます」
と言われました。
後日、高校の友人たちと事故現場に行って花を添えながら、私は「正しい聖書信仰」の冷たさを思いました。クリスチャンでなければ救われないと言われ、切り捨てられるんですね。
信徒会長さんにその話をしたら、
「人間的な弱さに負けてはいけません。聖書的な価値観に立つべきです。あなたは花を供えに行ったそうですね。偶像崇拝の疑いがあります。よくないことです」
と言われました。
亡くなった人を悼むことが人間的な弱さだと言われ、花を添えれば偶像崇拝の疑いがあると言われるのが「聖書的な価値観」なんです

私の妹には知的障害があります。自分で聖書を読むことはできませんし、キリスト教の教義を説明してもほとんど理解できません。いくつになっても知能は2歳児くらいです。うちの親が、妹へのバプテスマ(洗礼)を教会にお願いしたら、牧師先生から、
「自分で信仰を告白できない人にバプテスマを授けることはできません」
と言われ、断られました。
障害のある妹のことで地域の民生児童委員さんが家に寄ってくれました。お寺の家の奥さんで、仏教徒です。親身になって話を聞いてくださり、いろいろ教えてくださいました。いい人でした。妹も、この民生児童委員さんが好きで、お帰りになるときにずっと手を振っていました。教会でその話をしたら、
「仏教徒がどんなにいい人でも、その人は救われません。キリストを信じる信仰以外、他に救いはありません。仏教徒の福祉活動なんて、しょせん、罪びと同士の傷の舐め合いに過ぎないのです。この世の価値観に惑わされてはいけません。聖書の教えだけが正しいのです」
と言われ、叱られました。

大学に進んでから、リベラルな教会の牧師の息子さんと知り合いになりました。その教派名を聞いたとき、最初は警戒しました。「その教派はリベラル派だから、気をつけないといけない」と思ったのです。でも、その学生もとてもいい人で、いろいろ話をするうち仲良くなりました。私は彼に、高校生だったときに同級生が事故死したこと、妹に障害があること、お寺の奥さんのこと、自分の教会で言われたことも話しました。
彼は、
「他の教派を否定するわけではないけれど、もしよかったら、うちの教会に来てみない? 僕の父と会って、話をしてみたら」
と言いました。

かなり緊張してその教会に伺いました。その派は正しいキリスト教ではないと聞かされていたので、異教の寺院に行くような気分でした。私はけっこう身構えていたのですが、お父さんの牧師先生は優しい感じの人で、私の話をよく聞いてくださいました。亡くなった同級生の話や所属教会で言われた話をしたら、
「つらい思いをされたのですね。亡くなった方がどうなるのか、人は、誰も断定などできません。神様は愛なのですから、愛である神様にその方の魂をお委ねしましょう」
とおっしゃってくださいました。
私は、
「事故現場に花を添えに行ったのは偶像崇拝でしょうか」
とお聞きしました。牧師先生は、
「故人を悼むことや故人に敬意を表することは偶像崇拝ではありません」
と、はっきりおっしゃいました。
キリスト教の人からそんなふうに言われたのは初めてで、新鮮な驚きでした。さらに、
「妹さんのことですが、うちの教会なら、知的障害のある方にも洗礼を授けることができますよ」
とおっしゃるのです。
家に帰って、両親にその話をしました。別な教会に行ったことを叱られるかと思ったら、叱られませんでした。それどころか、私の話を聞いて、うちの両親もその教会に相談に行くようになりました。

それまで通っていた「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会」は、あれもだめ、これもだめと、律法に縛られたファリサイ派のようでした。「間もなく世の終わりが来るのですから、世にかかわっても意味がありません」みたいな感じで、社会の問題や政治の問題にもまるで無関心でした。それはまるで、この世の現実からも人の心からも離れた機械仕掛けの神様を信じているようでしたし、信者は人間らしい感情を殺して従うロボットのようでした。「神は愛です」と言われても、ちっとも愛を感じません。信仰の喜びもありません。人間らしい感情を示そうとすれば、「それは聖書的ではありません」とか「世の誘惑に負けてはいけません」とか言われ、叱られたのです。
私は思いました。あの機械仕掛けのような神様は、人間が聖書の言葉をつないで頭の中で作り出した「神様」ではなかったのかと。そう思ったとき、今まで教えられてきた「正しい教会」と「正しくない教会」が、実は、逆だったのではないかと思えてきたのです。
パウロの回心ではありませんが、私は、目からウロコが落ちるような思いでした。

なぜ人は、頭の中で「神様」を作り出し、本気で信じ、維持してしまうのでしょう? 信じ込んでしまった人は、それを正しい聖書信仰だと思い、すべてがその価値観となり、その色眼鏡を通してしか物を見ることができなくなってしまうのです。「人はみな罪びとです」、「信じない者は罪に定められます」、「罪から来る報酬は死です」、「死後さばきにあいます」等々、いつも頭に浮かんできて、やたら自分を責めたり、他者を責めたりしながら、自分たちなりの正しさで人を支配しようとするのです。「聖書にこう書いてあります」と、何の悪意もなく、自分たちの読み方を絶対視して、それが正しい聖書理解で、自分は正しい教えに従っているのだと信じて・・・・。

私たちは、一家で教会を替えました。
そして妹は、移籍した教会で洗礼を授けてもらいました。
洗礼式のあとに信者さんたちと教会の前で記念写真を撮りました。
妹もにこにこ笑っています。

私たち一家は、やっと人間の感情を取り戻し、やっと人間らしくなれました。

牧師先生の息子さんと親友になりました。
エキュメニズムの活動に参加するようになりました。
カトリック教会の人たちとも、お寺の人たちとも、仲良くおつき合いしています。
私たち一家は、イエス様の教えに従って生きる道を選びました。

良心に従って生きようとするすべての人たちに感謝します。

神様! ありがとうございます!

(伊藤一滴)


追記:今回も創作です。架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作です。
ただし、今回もみな、キリスト教の中に実際にある見解を書いています。

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