進化論を否定する「クリスチャン」たち(再び)
前に長々と書いた文章の中から、進化論を否定する人たちのことをもう一度ここに書きます。
福音派の中には強く進化論を否定する人たちがいます(福音派の全部ではありません)。これも、聖書の記述を文字通りに信じようとするからでしょう。
聖書を「文字通り」信じ、聖書に根拠を求めるなら、
太陽ができるより先に地球があり、地球には光があり、地上には植物が生えていたことになる。
それに、地球は丸いなんて、どこも書かれていないし、地球は太陽の周りを回っているとも書かれていない。神はまず地球をお造りになり、地球の周りを回る太陽と月をお造りになったと考えるのが聖書的だろう。
(略)
疑問点の数々を適当にごまかしながら進化論否定だけは譲らないって、変ですよ。
私が思うに、進化論否定は聖書から導いた人間の考えの一つであり、イエスの教えではありません。
過去に、聖書から導いた人間の考えによる科学への介入の数々がありました。その結果、科学が負けたことはただの一度もありませんでした。教会の科学への介入は全戦全敗でした。(ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教との闘争』(岩波新書 赤)参照)
ホワイトが神学ドグマと呼ぶ「聖書から導いた人間の考え」の方が訂正を迫られたのです。多くの教会の指導者らは、そういう導き方をしてはいけなかったと気づいたのです。
進化論だけは例外ですか?
あなた方はまだ気づかないのですか?
聖書から導いた人間の考えの中の一つに過ぎない進化論否定に固執してイエスの教えがないがしろにされたなら、現代のファリサイ主義(パリサイ主義)ですよ。実際私はそういう人たちを見てきました。イエスの教えより神の愛より進化論否定が大事みたいな人たちを。進化論否定と進化論を認めるクリスチャンを攻撃することに夢中になって、それが自分の「信仰」の中心のようになっている人たちを。
私は現代のカトリック信者や主流派のプロテスタント信者が進化論を否定するのを一度も聞いたことがありません。一度も。
今日、進化論否定は福音派の中だけの話です。しかも福音派の全員ではありません。
「キリスト教はみな進化論を否定している」なんて思わないでください。
(出典:http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/07/post-31c8.html)
補足
全員がそうだとは言いませんが、どうも、「進化論否定に熱心な人たち」と「地獄の恐怖をことさら強調する人たち」「他宗教を否定して非難する人たち」「他者を断罪する人たち」「政治や社会の問題に無関心な人たち」「同性愛者や性同一性障害者などの性的少数者に無理解で、非難めいたことを言う人たち」等は、重なる場合が多いようです。統計があるわけではありませんが、感覚的にそう思います。
進化論否定に熱心な人の多くは、自分たちは正しい信仰で他は間違っているという原理主義に近い考えの人(あるいは完全な原理主義者やカルト)です。それは福音を信じる喜びではなく、律法主義の束縛からの解放でもなく、イエスに従うことでさえなく、「自分は本当に救われているのか」とおびえながら、人間が作ったイデオロギーにすがりつく「信仰」のようです。自分で決断して行動する勇気もないし、不安におびえる自分を直視もしたくないから、「こう書いてあるからこうです」と、書いてある通りに信じることで自分は救われていると思いたいのです。それはまさに現代の律法主義であり、民衆のアヘンです。地獄に行きたくないから「イエス様の十字架のあがないを信じます」と言って、それを自分の免罪符に使おうとするただのエゴです。
そういう人たちの指導者たちは、そもそも小心者のエゴイストですから、困難な状況のときに困難な役割を人に押し付けて、自分はするりと逃げて、そういう自分の態度を聖書の御言葉で正当化したりするのです。思い出したくもないのですが、私はそういう「牧師」や「リーダー」たちを見てきました。
それは「教派ではなく純粋なキリスト教」であったり「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会」であったり「福音的な教会」であったり「正統的なプロテスタント」であったりしました。「教派ではない」と主張する人たち以外は福音派と名乗っていました。果たして、そのような自称「純粋なキリスト教」や自称「福音派」たちはクリスチャンなのでしょうか? 彼らも救いの中にいるのでしょうか? 私はそういう「教会」やグループを信用しなくなりました。彼らの指導者らは、イエスに従おうとしません。どこまでも、人間が作ったイデオロギーを優先します。
イエスの教えに従う人たちは、わざわざ自分たちを純粋だの福音的だの正統だのとは言いません。「私たちは正統プロテスタントの教会であり、統一協会、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教とは一切関係ありません」なんて、聞かれてもいないのにわざわざ言いません。人間が作り出した教えに縛られている原理主義者やカルト、および原理主義に近い超保守派が、特にそういうことを言いたがるのです。
ゆがんだ宗教に共通する特徴は、
金銭問題
異性問題
ボスの君臨
です。
あとは、情報の制限、他派との交流の制限、マインドコントロールの手法、恐怖による支配、強権支配、パワハラ、セクハラ、性犯罪やその隠蔽と、いろいろです。聖書が改竄されることもあります。
カルト化する教会は、ほぼ例外なく「福音派」と名乗る教会です。(「教派ではなく純粋なキリスト教」派も、自称「福音派」と同様の主張なので同様のグループとみなします。)
彼らは、ほぼ例外なく進化論を強く否定します。
聖書66巻は無誤であると主張します。
日本では多くの場合、新改訳聖書を使っています。
(逆は言えません。福音派と名乗る人、進化論を疑う人、聖書の記述をその通り信じようとする人、新改訳聖書を使う人は、みなカルトだなんて言えません。対話できる人、穏健で善良な人がたくさんいます。私は、「福音派」と「自称「福音派」の原理主義者やカルト」とを分けて考えています。ただし、福音派の中には原理主義寄りの人もいます。)
上にも書いた通り、聖書のどこにも地球は丸いとは書かれていません。地球は太陽の周りを回っているとも書かれていません。
「聖書を「文字通り」信じ、聖書に根拠を求めるなら、
太陽ができるより先に地球があり、地球には光があり、地上には植物が生えていたことになる。」と書きましたが、これについて保守的な福音派や自称「福音派」から納得のいく説明を聞いたことがありません。太陽がなかったのにどうして光があり、地上に植物があったのか。先に出来ていた地球がどうして後から造られた太陽の周りを回りだしたのか。
適当にごまかさないでください。
「創世記の1日は今の私たちの1日とは違います」なんて言う人もいますが、仮に創造の1日が、何億年、何十億年という歳月だったとしても、生成の順番も違っています。
「地球が出来たばかりのときはまだ熱く、だんだん冷えていった」「その熱で植物が育っていた」なんて、聖書のどこにも書かれていない話を勝手に作らないでください。途中まで科学で、途中から自分たちが信仰だと思っている先入観で、話が混ぜこぜです。木に竹を接ぐような話でごまかさないでください。
「地球が出来たばかりの時はガスに覆われていて、やがてガスが晴れて太陽や月が見えるようになった。それを太陽と月の創造としている」なんて、これまた聖書のどこにも書かれていない話を作らないでください。これも途中まで科学で、途中から自分たちの先入観です。話が混ぜこぜです。
「進化論には一貫性がない」なんて言いますが、反進化論はさまざまで、反進化論の方がよっぽど一貫性がありません。生物の進化のすべてが科学的に解明されたわけではありませんが、大筋では、進化論は一貫しています。ないとされていた移行化石も見つかっています。ダーウィンが思っていたより進化がはやく進んだとすれば、移行種が見つかりにくいことも説明できます。
『解明された信仰』(Faith Unraveled)の著者レイチェル・ヘルド・エヴァンズ氏は進化論を学び、反進化論では説明がつかないと考えるようになりました。それも彼女が原理主義的な信仰を脱した理由の一つでしょう。それでも彼女はキリスト教から離れませんでした(後に聖公会に改宗)。進化論裁判で知られるデイトンで暮らし、きわめて保守的な環境の中にいて、原理主義者ならどういう問いにどう答えるか、「すべての解答を知っていた少女」だったというエヴァンズ氏は、幅広い学びと幅広い対話の中で目を覚まし、偏狭な原理主義を脱し、イスラム教徒にも性的少数者にも理解のある、反差別の人に生まれ変われました。
どなたか『解明された信仰』を日本語に訳して出版してくださいませんか。日本の自称「福音派」らに目を覚ましてもらうためにも。
誰だって、目を覚ますチャンスはあるはずです。
聖書の教えが真実なら、神は、誰も見捨てたりなさらないはずです。みんな新しい人になれるのです。
今、原理主義やカルトの教えに閉じこもっている自称「福音派」だって、目を覚ますチャンスはあるはずです。
はやく目を覚ませば、それだけ残りの人生を有意義に使えます。
本当にどなたか『解明された信仰』を日本語に訳して出版してくださいませんか。
(伊藤一滴)
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