福音派とされる連続体 大きくは2つ
キリスト教に、西方教会、東方教会があり、
西方教会に、カトリック、プロテスタントがあり、
プロテスタントに、主流派、福音派があります。
プロテスタントの主流派は16世紀の宗教改革の流れを汲み、その後の近代科学の発展の中で、科学的な研究成果を踏まえた上で聖書学研究や神学的な論考を重ね、現代に至っています。
一方、聖書を近代の科学的な研究方法で検討したりすれば信仰が脅かされるのではないかと感じた人たちがいて、特に20世紀初頭のアメリカでキリスト教原理主義(Fundamentalism)が台頭してゆきました。根本主義とも訳されます。原理主義は、初期には自由主義神学・高等批評の行き過ぎと思われる見解を批判してキリスト教の原理(根本)に立ち返ろうとする動きでしたが、やがて極端になってゆき、ついていけなくなった人たちが、より穏健な新福音主義の流れを興しました。福音派のすべてではありませんが、福音派と称する人たちの多くはこの新福音主義の系譜です。(その後、「新」をつけずに単に福音主義とも呼ばれ、ルターの福音主義と言葉が重なっています。福音主義という言葉がどちらの意味で使われているのか注意が必要です。一部には意図的に混同させているのではないかと思える人たちもいます。)
福音派は、極端化した原理主義の批判的克服だったはずなのに、この福音派の穏健な流れに満足できない人たちもいて、中には先祖返りのように原理主義に向かう人たちが出てきました。だから福音派と称する中に原理主義寄りの人たちがいるのです。原理主義的精神性が濃く表れた人たちとも言えます。やや原理主義寄りくらいならともかく、自称「福音派」の中には原理主義者(fundamentalist)そのものやカルト化した人たちもいて、そもそもそうした人たちをキリスト教と呼んでいいのか疑問ですから、いくら彼らが「正統的プロテスタント」とか「正しい聖書信仰に立つ福音主義」とか「福音派」とか「福音的な教会」とか名乗っても、私は(原理主義者でない一般の)福音派とは分けて考えています。
「福音派の中の原理主義寄りの人」と「自称「福音派」の原理主義者やカルト」と、どこで線を引くのかは難しいのですが・・・・。
整理すると、
伝統的なカトリック(西方教会)と正教会(東方教会)、
16世紀に西方教会から派生したプロテスタント、
19世紀末から20世紀初頭にかけてさらにプロテスタントから派生した原理主義(初期にはキリスト教の原理・根本に立とうとする信仰運動、やがて極端化)、
原理主義から分かれた福音派、
福音派の一部の再原理主義化(先祖返り)、さらに一部はカルト化、
となります。
(わかりやすいようおおまかに書いたので、実際はもっと細かく分かれます。)
唯一の神を主張しながら、教会はいろいろです。
クリスチャンたちは自分が所属する教派をキリスト教の中心と考えがちですが、実は、それぞれにいろいろです。
教派もいろいろ、福音派とその周辺もいろいろです。
所属は主流派だが、考えが福音派寄りの人たち、
所属は福音派だが、リベラルな感覚の人たち、
穏健で善良な一般の福音派、
人はいいがやや保守的な福音派、
きわめて保守的な福音派、
原理主義に近い福音派、
明らかな原理主義者、
カルト化した人たち、
狂信的な聖書カルト、
狂気に憑かれた人・・・・。
福音派と名乗る人やその周辺の人たちの例です。もっといるでしょう。
間にはっきりとした線引きはないと思います。
連続体のイメージです。
白い色がいつの間にか黒になるような、間にうすい灰色からうんと濃い灰色まであって、色むらもあるイメージです。
私は、福音派と名乗る人たちはいろいろだと感じていますが、それは、細かくはっきり分類できるということではなくて、間にはっきりとした線引きはないけれどいろいろだということです。
日本の福音派の団体は加盟を希望する教会を厳格に審査していないようで、穏健な福音派も、原理主義者も、カルトまで、団体に加盟している状態です。
教派・教会でも分けられません。同じ教派・教会に、穏健な福音派と原理主義者が混在することがあります。
福音派と称される人たちに「狭義の福音派」と「聖霊派」がありますが、どちらにも穏健な人も原理主義者もいて、一部にカルト化もみられます。
教派・教会で分類してもあまり意味がありません。
ネット上に危険な教会のリストもありますが、多くは個人の主観的な見解か、自分が所属する教派の立場から見て、違う考えの教会を「危険な教会」として載せているだけです。原理主義者がエキュメニズム派を危険な教会呼ばわりしているものもありますし、原理主義者が別の原理主義者を攻撃しているリストもあって、使い物になりません。逆から見たら逆に見えるだけです。原理主義者も一枚岩ではないのです。
エキュメニズム(教会再一致運動)を敵視する教会やグループには近寄らない方がいいでしょう。(原理主義者の側からは、それこそ、「それはあなたの主観的な見解」「逆から見たら逆に見える」と言われてしまうかもしれませんが。)
もし教会で話を聞いてみたいのなら、エキュメニズムを方針とする主流派(日本基督教団など)かカトリックの教会をお勧めします。正教会でもいいのですが、日本では少数です。エキュメニズムの側は日本聖書協会の聖書(新共同訳、聖書協会共同訳など)を使っている人たちです。できれば複数の教会の話を聞いたほうがいいでしょう。(リベラルの代表のように言われる日本基督教団ですが、もともとプロテスタント諸教派が合同した大きな団体で、今も内部には福音派寄り、聖霊派寄りの人たちもいます。たまたま行った教会がそうした教会に当たるかもしれません。日本基督教団にはカルト教会はないと思いますが、中には問題のある牧師もいるかもしれません。)
福音派と名乗る教会(新改訳聖書を使っている人たちが多い)の中に、原理主義者やカルトの集団もみられます。ただし、福音派には穏健で善良な信者も多数いますから、福音派だから駄目だとは言えません。
カルトじみた人たちは、すぐにはカルト色を出さず、笑顔で迎えてくれたりするので、いい人たちのように見えてしまいます。非クリスチャンはもちろん、クリスチャンだって、すぐに見分けるのは難しいでしょう。
福音派の教会に行くのなら信頼できる人の紹介か、信頼できる人と一緒に行くのがいいと思います。
「リベラルなプロテスタント(主流派)やカトリックの教会を訪問するときに新改訳聖書を持って行ったら叱られるでしょうか?」と言っていた人がいましたが、杞憂です。叱られたりしません。エキュメニズムの側は、違う訳の聖書を持ち込んだからといって叱るような人たちではありません。(リビングバイブルやこれと似た「訳」はやめたほうがいいでしょう。叱られはしないでしょうが、聖書が原形をとどめないくらい書き換えられています。わかりやすく訳したのではなく、書き換えたのです。聖書についての話をするなら、訳として使えるものが必要です。)
福音派と名乗る教会の一部に、新共同訳や口語訳聖書などを持ち込むと、「それは学者の訳で信仰的な訳ではありません」「福音的な訳ではありません」みたいなことを言う人がいますが、逆はないです。
私もかつて、中部地方や関東地方にいた頃に、新改訳聖書を持って主流派やカトリックの教会を訪問しましたが、叱られたことなんて一度もありませんでした。「それは原理主義者の訳で学問的な訳ではありません」なんて言われませんから、ご心配なく。
新改訳聖書(初版)も、努力が感じられる訳であり、駄目な訳というわけではありません。私は今も使っています。
新改訳2017は、読者をある種の解釈に誘導しようとする意図が感じられ、個人的には好きになれません。でも、それも訳の範囲内というならそうなのでしょう。私の好みはともかく。
リビングバイブルやこれと似た「訳」は、聖書の全体的な書き換えであり、翻訳と言うより翻訳風の作文ですから、聖書の訳としては使えません。
ひじょうに大雑把な分け方ですが、福音派と名乗る人たちの中に、「聖書を信じ、穏健で善良で、愛の心で人に接する人たち」と、「聖書を自分たちの先入観に合わせて解釈する、独善的、排他的、不寛容、攻撃的な人たち」がいます。その段階はいろいろで、はっきりここだと線引きはできません。
私は前者を福音派とか穏健な福音派と呼び、後者を自称「福音派」の原理主義者やカルトと呼んで区別しています。
ただし、両者の境目ははっきりせず、白がいつの間にか黒になっているイメージです。
これまで何度か、福音派と原理主義者の区別を書きました。
はっきりここだと線は引けませんが、方向が違うのです。
どこかに分水嶺がありそうですが、ここだとは言えません。
でも、両者は違うのです。
日本語版ウィキペディアの聖書やキリスト教関係の用語説明の中には、特定の立場から書かれていて客観性に欠けるものもありますが(その理由は前回書いた通り)、「宗教右派」の項に以下の記述を見つけました。これは当たっていると思うので、以下に引用します。
日本語版ウィキペディア「宗教右派」より(2020年7月20日現在、注は省略)
引用開始
福音派と原理主義の考えには大きな違いがある。飯山雅史によると、福音派は楽観主義であり人間が努力すれば、社会はよくなっていくとし、社会と積極的に関わっていくことを選択した。一方、原理主義者は悲観主義であり人間がいかに努力してもイエスによる救済まで世界は救われないとして、政治・社会から背を向けてきた集団であったという。
(略)
飯山雅史「米国における宗教右派運動の変容―2008年米国大統領選挙と福音派の新たな潮流―」 (pdf) 『立命館国際研究』第20巻第3号、立命館大学、2008年、 337-363頁、2017年5月18日閲覧。
引用終了
福音派(穏健な福音派)は世に関わり人に関わるので他者を大切にします。「愛の心で人に接する人たち」です。「人間が努力すれば、社会はよくなっていく」と考え、イエス様が示された理想に、自分も、自分の周りも含む社会全体が近づいていくことを願って、祈りながら活動しているのです。
この人たちは相手の立場に配慮しながら、相手の話を親身になって聞いてくれますし、一方的に相手を非難したりしません。
彼らの祈りは、「天のお父様、より良き世界のために私たちを用いてください!」という感じです。
私は、そうした福音派の方々に助けられてきました。私が苦しい思いをしていたときに、親身になって話を聞いてくださり、祈り、励まし、助言をくださいました。私は、個人的には、主流派(リベラル)よりも福音派に助けられてきました。福音派の牧師先生や信者さん方は私の恩人です。
そうした人たちは、アシジのフランチェスコやモロカイ島のダミアン神父、マザーテレサらを尊敬していました。信仰を持って社会的な実践に取り組んだ人たちは教派を超えて敬愛されるのです。
福音派内にみられる聖書無誤論や進化論否定論には賛成できませんが、私は、福音派的な信仰に対して何ら悪い感情はありません。
(私自身は多くを知り過ぎてしまい、福音派の信仰に加わることはできませんが。)
なお、教義が原理主義に近くとも「人間が努力すれば、社会はよくなっていくとし、社会と積極的に関わっていくことを選択した」人たちもいます。私はそうした人たちを福音派と呼び、原理主義者(ファンダメンタリスト)とは言いません。
原理主義者やカルトも自分たちを「福音派」と自称していますが、彼らは政治にも社会にも無関心で、「まもなく世の終わりが来るのですから世の中に関わっても無意味です」みたいな感じです。人の言葉に耳を傾けず、ひたすら自分たちの先入観を優先する「独善的、排他的、不寛容、攻撃的な人たち」です。
私はある原理主義者から、「救いも神の国の実現も神の御業であって、人間の側が神様に協力するなんてできません」と言われたことありますが、それって、自分は困っている人のために何もしないってことですよ。自分は指一本動かそうとせずによく言うよと思いました。まあ、言葉どおりの人でしたね。現代のファリサイ派(パリサイ派)を見るようでした。
その人の仲間が、仏教団体の社会活動を、「そんなのは罪びと同士の傷のなめ合いで、救いには至りません。唯一の救いはキリストの贖いを信じることです」なんて言ってましたね。そうやって社会への取り組みを鼻で笑って小馬鹿にするんです。クリスチャンによる福祉活動や人権擁護運動、平和運動まで馬鹿にしていました。「あの人たちは信仰より社会活動を重視する社会派ですから、正しい信仰態度とは言えません」みたいなことを言って。そう言う原理主義者にとっての「信仰」って何でしょう。キリストの十字架の贖いは自分が地獄に行かずに済むための免罪符ですかね。それが「正しい聖書信仰」?
原理主義者らは一般に政治や社会に無関心ですが、例外は、進化論反対、妊娠中絶反対、同性婚反対などで、これらに関しては政治や社会に介入してくることもあります。でもそれは、科学への関心や人命尊重ではなくて、社会をよりよくしたいという思いでもなくて、単に自分たちのイデオロギーを守りたいだけのように見えます。彼らの社会的な無関心は重症です。
自称「福音派」の原理主義者の中に、「私たちは原理主義とは沿革が違います」と言う人もいますが、かつての原理主義とほぼ同じ主張をしているので、いくら自分たちを「福音派です」と言っても原理主義者です。自分たちを福音派と言い張るのなら、福音派という言葉の定義に「キリスト教原理主義や聖書カルトを含む」と付け加えないといけなくなります。
(福音派とは何か、については、日本語版ウィキペディアには福音派の側の見解(それも福音派内でも保守的と思える見解)が載っているだけなので、コトバンクをご覧ください。「知恵蔵」の記事が載っています。「コトバンク 福音派」で検索)
原理主義者の宗教は、治療効果のない鎮痛剤(あるいは麻薬)のようです。鎮痛剤で心の痛みをごまかし、感じにくくするうちに、傷はますます悪化してゆきます。そんな宗教は滅びそうな気がするのですが、鎮痛剤を求めてやって来る人たちが絶えないのでいつまでも続いてしまうのでしょう。それは、それだけ世の中に苦しみが多いからでしょう。
プロテスタント主流派やカトリック(エキュメニズム派)は、エリート教育や聖書学研究などには熱心だけれど、世の苦しみにきちんと答えてきたのでしょうか。苦しむ人にとって、原理主義はわかりやすく、自分を受け入れてくれると感じられ、そちらに流れていったのではありませんか。
苦しいときに宗教にすがってはいけないとは言いませんが、アヘン的な宗教に手を出すべきではありません。アヘン的な宗教は一時の心の鎮痛で、傷は癒えません。だんだん強い薬が必要になって、しまいには心をひどく傷めてしまいます。
原理主義者でない一般の福音派(穏健な福音派)と自称「福音派」の原理主義者やカルトはかなり違うのですが、ここまでは福音派でここからは原理主義者だと簡単に線は引けません。
でも、福音派と名乗る人たちを大きく見れば、この2つがあって、向かっていく方向がまるで違っているのです。
以前、「平和島」という詩を引用しました。
あの詩を使って譬えると、こんな感じです。
平和島には王であるイエス様がおられると聞いて、平和島に行きたいと思いました。
港に大勢の人がいたので「平和島はどっちですか?」と聞きました。
カトリック、正教会、プロテスタント主流派、穏健な福音派、みんな「あっちです」と答えました。
わずかな違いはあっても、みんなほぼ同じ方向を指していました。
原理主義者・カルトだけが、まったく違う方向を指していました。彼らは「私たちだけが正しいのです。他はみな間違っています」と言いました。そっちに行ったら、平和島からどんどん離れ、見えなくなってしまうのに。
平和島:http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/11/post-e773.html
(伊藤一滴)
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