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キリスト教の教派

このブログをどなたがお読みなのか私の側からはわかりません。

どの記事が特に読まれているのかも、はっきりとはわかりません。

グーグルでこのブログを検索すると、キリスト教関係の記事が上位に出るので、キリスト教系が多く読まれているのではないかと思います。

世に出回っているキリスト教系の情報は限られています。
発信される情報は多いのですが、そのほとんどが教会の案内や個人的な見解など、特定の立場からのキリスト教の紹介です。
どの教派も、自分たちの教派を紹介するときに、悪いことは言わず、いいことしか言いません。
「キリスト教年鑑」なども、教派側の言い分をそのまま載せています。
本当はどうなのか、知りたい話に行きつくのが難しいのです。知っている人には常識的な話も、まったく知らない人はなかなか知るチャンスがないのです。

事実だから言います。
今日、「カトリックとプロテスタント」という分け方はあまり意味がありません。
「カトリック」と「プロテスタントの主流派」は対立していないからです。

むしろ、
プロテスタントに主流派(mainline、リベラルな立場)と福音派(evangelical、保守的な立場)があって、この両者は別の宗教ではないかと思えるくらい違っています。この両者の違いの方が重要です。(福音派は、福音派と言えば通るのですが、主流派の呼び名は統一されていません。片仮名でメインラインと書く人もいますし、伝統派と呼ぶ人もいます。以前は、日本キリスト教協議会(NCC)系とも呼ばれました。ここでは、mainlineを訳して主流派と書きます。)

一部に重なる部分もありますが、ほぼ、きれいに教会も団体も出版社も2つに分かれています。
それにしても、まあ、どっちもプロテスタントのキリスト教を名乗りながら、使っている聖書の翻訳も、聖書辞典も、聖書注解も、キリスト教系の雑誌まで、まるで対称のように2つに分かれているとは!

現代のカトリックはリベラルになってきていますから、リベラルなプロテスタント主流派とは対立関係にありません。両者は共にエキュメニズム(教会再一致運動)の側に位置しています。両者を総称してエキュメニズム派と呼ぶこともあります。この両者は、日本では多くの場合、日本聖書協会の新共同訳聖書を使用しています。

それに対し福音派には反エキュメニズムの主張がみられます。でも中にはエキュメニズムに理解を示す福音派の人もおりますから、福音派と言っても一枚岩ではありません。
なお、新改訳聖書は福音派の独自の訳です。初版~第3版、そして新改訳2017と改訂され、私見では改訂されるたびごとに悪くなっていくように感じられます。

カトリックは福音派を嫌ったりしませんが、福音派の一部(あるいは自称「福音派」)がカトリックを嫌って噛みついてくることがあります。そのほとんどが的外れな非難で、非難されたカトリックの側は戸惑います。「カトリックはマリア像を拝んでいるから偶像崇拝です」とか「聖書に出てこないリンボ界を主張しているから間違っています」といった非難です。あとは、戦前の本からの孫引きみたいな、昔のカトリックの問題点の攻撃です。説明しても聞く耳を持ちません。対話しない人たちですから、現代の現実のカトリック教会を批判しているのではないのです。現代の一般のカトリック信者が知らないような昔の話と正式な教義ではない一部の神学説を混ぜて、誤解や先入観も混ぜて、自分たちが頭の中で作り出したカトリックを攻撃してくるのです。「自分たちは正しい聖書信仰に立っているので、間違った人たちの話を聞く必要はない」ということのようです。そういう「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」に、「相手の話を聞きもせずに非難するのはおかしいですよ」と私が言ったら、「いいえ、カトリックの話は聞いています」と言うんですね。でもよく聞いてみたら、一人のカトリック信者から一度話を聞いただけでした。司祭でもない一信徒からたった一度話を聞いたくらいで「カトリックの話は聞いています」って、何を言っているのかと思いましたよ。他の「正しい聖書信仰」の人たちも似たり寄ったりでした。

ほとんどのカトリック信者は、プロテスタントの教派の見分けなどつきません。「プロテスタントもいろいろですね」みたいな感じです。

こうした福音派の一部(あるいは自称「福音派」)は、プロテスタント主流派(リベラル)に対しても攻撃的で、「自由主義神学」というレッテルを貼って噛みついてきます。この場合の「自由主義神学」というのは、「自分たちの神学(つまり原理主義的な考え)以外の神学」のことであり、一般に言う19世紀の自由主義神学のことではありません。彼らは、カトリックもリベラルも異端派もみな一緒くたにして攻撃してきます。
どうも自分たちだけが正しい聖書信仰に立っていて他は全部間違いだと思っているようです。
「福音主義」という言葉も「自分たちとその仲間」という意味で使っていて、ルターが言った福音主義(聖書中心主義、プロテスタント)という意味とはちょっと違います。
まあ、そういう教会やグループには近づかないことです。イエスの姿勢とは違いますし、聖書の勉強にもなりませんから。

福音派はいろいろです。他教派の見解を聞きに行く人もいるし、カトリックと仲の良い人もいます。私が知っているある福音派の信者はカトリックととても仲が良くて、修道院に泊まったり、一緒に祈ったりしていました。
最近は、福音派のいのちのことば社なども、他の教派に配慮した物品を扱うようになってきました。映画のDVD「ローマ法王になる日まで」、「夜明けの祈り」、「マザーテレサからの手紙」なども扱っていました。(昨年末のカタログを見ています。品切れになっていたらすみません。)
いろいろですから、福音派はこうだとレッテル貼りはできません。

東方教会(正教会)は日本では少数です。現在、正教会の指導的な人たちは、カトリックやプロテスタント主流派と対立はしていません。

歴史的沿革としては教会の東西分裂があり、ローマを中心とした西方教会とコンスタンティノープルを中心とした東方教会に分かれ、やがて西方教会(ローマカトリック)からプロテスタントが生じました。

ですから、
東方教会と西方教会がある(少数ですが、他もあります)、
西方教会に、カトリックとプロテスタントがある、
プロテスタントに諸派がある、
となります。

プロテスタント諸派は沿革が近ければ考えも近いかというと、そうでもないんです。沿革が近くて名前も似ているけれど考えがかなり違うこともあります。

プロテスタントの考え方を大きく分ければ、主流派(リベラル、エキュメニズム)の側と、福音派があります。
大きく分ければ、主流派と福音派の2派しかない、とも言えます。
両者はかなり違います(一部、中間的な立場もあるようですが)。
主流派は普通「私たちは主流派です」なんて言わないので、「おたくの教会は主流派ですか?」と聞いても「はい、主流派です」とは答えないかもしれません。福音派かそうでないかを聞いた方が話が通じるでしょう。福音派は、「私たちは福音派です」と名乗っています。福音主義とか、福音的な教会といった言葉が使われることもあります。その場合、「福音主義」や「福音的な」の「福音」は、「福音派と名乗る自分たちやその仲間にとっての福音」という意味です。そういう意味なので、「カトリック教会は福音的ではありません」「日本基督教団は福音的ではありません」「口語訳聖書は学者が学問的に訳したもので、福音的な訳ではありません」といった言葉が出てくるのです。
例外もありますが、日本のプロテスタント主流派は日本聖書協会の聖書(特に「新共同訳」)を使うことが多く、福音派は「新改訳」を使うことが多いので、使っている聖書の訳でだいたい見分けられます。
主流派は「キリスト者」という言葉を好み、福音派は「クリスチャン」という言葉を好みます。祈りもそれぞれに特徴があります。「キリスト者」と「クリスチャン」が対立するのではなく、対話を深めてほしいと、私は思うのですけれど・・・・。
主流派の学生が言ってました、「僕たちが福音派に対話を呼びかけても福音派は応じない。僕たちは福音派を排除しないのに、福音派が僕たちを排除する」って。

主流派は、リベラルな立場であり、知性・理性を重んじる人が多いようです。牧師は宗教家と言うより学者や教師のような感じです。実際に大学や高校などで教えている牧師もいます。人との関係もあっさりした感じで、熱烈な伝道活動もなく、教勢も伸びません。彼らには、現代の世界観を感じます。

福音派は、信仰的には保守です。聖書の記述を文字通りに信じようとする熱い信仰を感じます。信者同士の人間関係は濃く、伝道熱心です。
全員がそうだとは言いませんが、超自然的な現象を強く信じている人たちが多いようです。聖書を文字通りに信じようとすればそうなるのでしょう。天使も悪魔も奇跡もみな具体的な現実だと信じられていた古代・中世のような世界観を感じます。
聖書に書いてあるかどうかをとても気にする人が多く、「そんなことが聖書のどこに書いてあるんですか?」と、ことあるごとに言う人もいます。なんか、カルヴァンを極端にしたような印象を受けたこともありました。

何度も言いますが、福音派もいろいろです。
知的で穏健な人たちもいますが、かなり保守的な人もいます。
極端に保守的で、原理主義寄りの人もいます。
さらに、「福音派」と称する人たちの中に明らかな原理主義者や狂信的な聖書カルトまでいます。(『「信仰」という名の虐待』(いのちのことば社)参照)

私は、福音派と原理主義者(一部はカルト)は、分けて考えるようにしています。
原理主義者やカルトも「福音派」と名乗り、福音派の団体に加盟していることもありますから、団体に加盟しているから安全というわけではありません。

カトリック教会や主流派のプロテスタント教会のカルト化は聞いたことがありません。
知性・理性を重んじる現代的な感覚の人たちはカルト化しません。
福音派的な信仰を否定するわけではありませんが、古代・中世のような世界観で唯一の神を熱っぽく信じると、時に脱線し、暴走し、カルトに走ることもあるようです。
(ただし不祥事は、自称「福音派」の原理主義やカルトだけでなく、一般の福音派でも、主流派のプロテスタントでも、カトリックでも起きています。どちらかと言うと不祥事は、自称「福音派」の場合は教会全体の暴走、他は指導者の個人的な逸脱の場合が多いように思えます。)

福音派の中には強く進化論を否定する人たちがいます(福音派の全部ではありません)。これも、聖書の記述を文字通りに信じようとするからでしょう。

聖書を「文字通り」信じ、聖書に根拠を求めるなら、
太陽ができるより先に地球があり、地球には光があり、地上には植物が生えていたことになる。
それに、地球は丸いなんて、どこも書かれていないし、地球は太陽の周りを回っているとも書かれていない。神はまず地球をお造りになり、地球の周りを回る太陽と月をお造りになったと考えるのが聖書的だろう。
悪霊に憑かれた人の話はたくさん出てくるが、細菌やウィルスが原因で病気になるなんて、どこも書かれていない。病気の多くは悪霊の仕業と考えるのが聖書的だろう。
人間の皮膚に生じる「らい病」も、衣服や家屋に生じる「らい病」も、同じ単語が使われている。人間の場合は皮膚病で、衣服や家屋に生じるのはカビであると分けて考える聖書的根拠はない。聖書が同じ単語を使っているのだから同じものとするのが聖書的だろう。
食物の話もいろいろ出てくるが、ジャガイモやトマトを食べてよいかどうかも、どこにも書かれていない。聖書がはっきりと認めているもの以外は食べないのが聖書的だろう。
・・・・疑問はどんどん湧いてきます。

疑問点の数々を適当にごまかしながら進化論否定だけは譲らないって、変ですよ。


私が思うに、進化論否定は聖書から導いた人間の考えの一つであり、イエスの教えではありません。
過去に、聖書から導いた人間の考えによる科学への介入の数々がありました。その結果、科学が負けたことはただの一度もありませんでした。教会の科学への介入は全戦全敗でした。(ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教との闘争』(岩波新書 赤)参照)
ホワイトが神学ドグマと呼ぶ「聖書から導いた人間の考え」の方が訂正を迫られたのです。多くの教会の指導者らは、そういう導き方をしてはいけなかったと気づいたのです。

進化論だけは例外ですか?

あなた方はまだ気づかないのですか?
聖書から導いた人間の考えの中の一つに過ぎない進化論否定に固執してイエスの教えがないがしろにされたなら、現代のファリサイ主義(パリサイ主義)ですよ。実際私はそういう人たちを見てきました。イエスの教えより神の愛より進化論否定が大事みたいな人たちを。進化論否定と進化論を認めるクリスチャンを攻撃することに夢中になって、それが自分の「信仰」の中心のようになっている人たちを。
私は現代のカトリック信者や主流派のプロテスタント信者が進化論を否定するのを一度も聞いたことがありません。一度も。
今日、進化論否定は福音派の中だけの話です。しかも福音派の全員ではありません。
「キリスト教はみな進化論を否定している」なんて思わないでください。


ネット上に、教会に行ってみたらこんなことを言われて疑問を感じた、といった書き込みが多数あります。
ああ、あの手の人たちの教会だと私は察しますが、教派の特色を中立的に整理したものは、書籍でもネットでもあまり見ません。

学者さんたちは、自分の専門分野はマニアックに詳しいのですが、守備範囲が限られています。
牧師さん神父さんや勉強家の信者さんたちは、自分が所属する教会の見解が正しいという前提で語り、守備範囲も、所属教派の話が中心になります。その人自身がある派に属しているので、なかなか中立的・客観的になれないのです。牧師や司祭、勉強した信者が先入観なしにキリスト教全体を網羅するのは難しいのです。

おすすめは、これです。
八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) 
紙の本です。

日本語でキリスト教の教派を解説した本の中で、私が知る限り最高峰です。
著者は学者でも牧師でもありません。非クリスチャンだそうです。だからこそ、これだけ網羅できたとも言えます。
八木谷氏の本は、各教派に関してバランスがとれており、詳しく、読みやすく、わかりやすく書かれています。

欲を言えば、牧師と司祭の違いについてもう少し踏み込んでほしかったと思います。牧師も聖職者のように書かれていますが、一般に牧師は教職者です。司祭が聖職者です。
原理主義的な「福音派」が出てきますが、穏健な福音派もあるので、そのあたり、もう少し書いてほしかったと思います。
聖書やキリスト教のマニアの私が熟読しても、上記の2点くらいしか指摘することがありません。良書です。


誤解されるといけないのですが、私は福音派の信仰を否定するのではありません。
私は、福音派と原理主義者を分けて考えています。

原理主義者や聖書カルトも「福音派」と自称しますが、穏健な福音派とは違い、独善的・排他的・不寛容・攻撃的な人たちです。「聖書に書いてあることを文字通り信じています」などと言いながら、イエスやイエスに従った人たちと似ても似つかぬ人たちです。彼らはイエスに従おうとしません。困難な状況のときに、困難な役割を人に押し付けて自分はするりと逃げたりします。普段は「罪から来る報酬は死です」などと言って聖書の言葉で人を脅しておきながら、今この状況でこうすべきだというときに、自分はするりと逃げるのです。そして、「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」などど言い、イエスに従わないことを正当化する理由にも聖書の言葉を使うのです。でも、そうした人たちは正常な判断力を失っているのかもしれませんから、彼らを責めようとは思いません。目を覚ましてほしいと思います。

福音派の中に、イエス・キリストに従って生きようとする善良で誠実なクリスチャンがいます。他者に優しく、特に苦しんでいる人や困っている人に優しく、困難な状況のときには自分から困難な役割を引き受けてくれるような人たちです。私も親切にしていただき、助けられてきました。ありがとうございました。
そうした善良で誠実なクリスチャンの中にも進化論に否定的な方がおられました。ですから、進化論をキリスト教信仰の踏絵にはできません。進化論についてどう思うかを、その人がまっとうなクリスチャンかどうかの判定には使えないのです。
上に進化論否定論に対する自分の考えを書きながら、私に親切にしてくださった心優しいクリスチャンの顔が浮かんできて、書くのがちょっとためらわれました。
でも、私は自分の思いを偽りたくないので、仕方ないです。

いずれは福音派の方々からお世話になった話も書きたいと思っています。

キリスト教について書きだすと、心にいろいろ浮かんできて、つい長い文章になってしましました。
すみません。

誤字などあれば訂正しよと自分で読み返しているうちに、補足したいことがいろいろ出てきてますます長くなってしまいました。どうもすみません。ここまで長くなったついでに、もう一点だけ補足します。

日本語版ウィキペディアのキリスト教関係の用語執筆に、福音派の保守的な信仰を持つ人が多数関わっているようです。信仰を持つ人が執筆してはいけないわけではありませんが、その場合、客観的な論述と自分の信仰上の立場は切り離すべきです。そんな当然のことが分かっていない人たちがいて、ウィキペディアのキリスト教関係の用語の中には福音派の中でも特に保守的な(つまり原理主義的な)考えの反映がみられることがあります。用語によっては、保守的な(原理主義的な)信仰を「福音主義」とし、主流派を自由主義神学とみなして、執筆者の信仰の立場を正当化しようとする意図まで感じられます。参考文献にも、福音派の中の特に保守的な人たちの間でしか通じないような、学問的にはまったく相手にされないものも載っています。ご注意願います。

(伊藤一滴)

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