結び目を解くマリア
キリスト教のごく初期、まだ新約聖書も成立していなかった時代にイエスを信じた人たちが集まっていた場所の壁に、マリアを讃える言葉が見つかっています。( ガーリヤ・コーンフェルト著 岸田俊子訳『歴史の中のイエス』)
キリスト教徒は古くからイエスの母であるマリアを讃えていました。
当然ですが、マリアは神ではありません。敬い、讃えるのは、神を崇拝するのとは違います。
「カトリックはマリア像を拝んでいるから間違っている」という主張は、大変な誤解です。
像を拝んではいるのではありません。敬愛するマリアに、共に祈ってくださいと願い求めているのです。
像は象徴的なものだそうです。一般の人がわかりやすいように、イエスの像、マリアの像などを置いて、象徴的にあらわしているのだそうです。カトリックの神父さんは「像は象徴であり、像に霊が宿っているといったものではありません」とおっしゃっていました。
カトリック、東方教会、聖公会、ルーテル教会などには、聖人という考え方があります。
聖人は、信仰の範となった人とも言えます。
イエスの母となったマリアは、もちろん人間ですが、聖人の中の聖人のイメージです。
クリスチャンの友人に「~のことで祈ってください」とお願いするように、この世を去った聖人に、「共に祈ってください」とお願いすることを「聖人に対する祈り」と言うのです。神への祈りとは性質が違います。像を拝んでいるのでもありません。「聖人に対し、共に祈ってくださいと願うこと」と言った方がいいのかもしれません。
「結び目を解くマリア」なんて、聖書的でないとおっしゃる人もいるでしょう。
しかし、イエスはキリストであるという信仰もマリアへの崇敬の念も新約聖書の成立より古いのですから、聖書あってのキリスト教というより、イエス信仰やマリア崇敬のほうが先にあったと言うべきでしょう。あとから信仰的な文書がまとめられて新約聖書となったのです。
プロテスタント信仰(聖書中心主義の信仰)の限界の一つがここにあります。
歴史的には信仰が先で、その信仰が表明された文書が聖書です。
何もないところにいきなり聖書が与えられ、その聖書を読んだ人の中に信仰が成立したのではありません。
さて、マリアには、結び目を解く力がおありなのでしょうか?
イエスは十字架で処刑されました。これは歴史的事実です。
なにも悪くない息子を殺害された母マリアは、いったいどんな思いだったのでしょうか。
マリアなら、きっと、軍政下で家族を殺害された人たちの気持ちがおわかりでしょう。
マリアに結び目を解く力があるのかどうか、私にはわかりません。ただ、この世界の各地の複雑な結び目が解かれ、全人類が平和で幸福な未来に向かっていけるよう、「マリア様、私たちと共にお祈りください」とお願いすることができる、という考えは成り立つだろうと思います。
(伊藤一滴)
付記:Amazonで「ローマ法王になる日まで」(DVD)を買った人たちが「よく一緒に購入されている商品」として、「神々と男たち」と「夜明けの祈り」が出てきます。この2つは見てはいませんが、解説を読むと、実話に基づく重いテーマを扱っているようです。
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