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エヴァンズ『解明された信仰』読了 聖書は解釈のしようでどうにでもなります

レイチェル・ヘルド・エヴァンズ(Rachel Held Evans)氏の『解明された信仰』(Faith Unraveled)を読みました。
すごいな、エヴァンズ氏。


エヴァンズ氏には『霊感によるもの』(Inspired、つまり「聖書」のこと(※1))や『聖書的な女性らしさの一年』(A Year of Biblical Womanhood(※2))といった著書もあります。
(日本語の題名は私の勝手な訳なので、著書を検索する場合はかっこ内の英語の原題でお願いします。それと、これら2冊は未読です。すみません。早く読みたいのですが、英語の本をかたっぱしから読むような語学力は私にはありませんので。)

ネット上のレビューで読んだのですが、『霊感によるもの』には、聖書の中には読みようによってどうにでも解釈できる箇所が多数あり、正反対の主張もできるという意味のことが書いてあるそうです。私と同じ意見です。
『聖書的な女性らしさの一年』は、これもレビューによると、1年の間「聖書的な女性らしさ」を徹底して実践しようとした話だそうです。彼女は、それは不可能だと気づきました。なぜなら一貫した聖書的な女性らしさなど存在しないからです。聖書的に女性はどうあるべきかなんて、箇所により、解釈により、どうとでも取れるからです。

私も感じていますが、
戦争、
奴隷制、
死刑、
女性の指導者、女性の教会内での発言、
豚肉を食べること、
異文化への対応、
性的マイノリティへの対応・・・・
他にもいろいろありますが、
聖書を引用して、まったく正反対の見解を述べることもできるのです。

解釈のしようで正反対のことが言えるのですから、「正しい聖書解釈」とか、「正しい聖書信仰」といったものは、「自分が属する教派やグループの見解」か「その人が聖書のある部分から導いた個人的な考え」かのどちらかです。(「間違った解釈」や「間違った信仰」というのは、自分の派や自分の考えと異なる見解のことです。)


かつて私は、福音派と称する人たちの同士討ちを見たことがあります。
武器を使うとか殴るとかはしませんが、ある「福音派」が、別の「福音派」に、聞くに堪えない憎悪に満ちた言葉を浴びせ、言われた側が真っ赤になって言い返すのを見ました。どちらの言葉も、人の心をぐさりと切る刃物のようでした。(※3)

対立する両者が両方とも「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」なのでしょうか? 

聖書は絶対だと信じる信仰は、何せ、絶対ですから、一切の妥協を許さず、ときに近親憎悪のような同士討ちになるのです。人間が認識できるのは、しょせん、認識できる範囲内の人間の側の理解に過ぎないのに、「聖書は絶対であり、自分たちの聖書信仰も絶対だ」になって、自分たちの認識が絶対になってゆくのです。


どうにでも解釈できる一例を挙げましょう。

有名な「豚に真珠」ということわざは聖書に由来します。こう書いてあります。

(7:6聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。「マタイの福音書」新改訳初版)

さて、犬や豚とは誰のことを指しているのでしょうか?

犬や豚というのは、聖書の本当の価値がわかっていないリベラル派のことだろう。
マリア像を拝んでいるカトリックのことだろう。
A教会のことだろう。
いや、A教会と対立しているB教会のことだろう。
聖書の本当の価値がわかっていないのは福音派のほうだから、福音派のことだろう。
福音派はともかく聖霊派のことだろう。
エホバの証人のことだろう。
共産主義者のことだろう。
ファシストのことだろう。
伊藤一滴のことじゃないのか。

何とでも言えます。
聖書は解釈のしようでどうとでも言えますから。
(※4)

(伊藤一滴)


※1: inspired を何と訳すかですが、著者の頭の中には次の聖書の言葉があったのでしょう。

All Scripture is inspired by God and profitable for teaching, for reproof, for correction, for training in righteousness;(2 Timothy 3:16  New American Standard Bible )

「聖書はすべて神の霊感によるものであって、教え、戒め、矯正、義の訓練のために有益です。」(2テモテ3:16)

この inspired を意識した題名と考えられるので、『霊感によるもの』としておくのが妥当な訳かと思いました。
実は、ちょっと考えました。聖書やキリスト教を論じるのに「ひらめき」は変だし、「神によって霊化された」ということなら2テモテ3:16だろうと思っていくつかの訳を開いたら上の訳がありました。それで、著者はこの御言葉を意識して inspired という題にしたのだろうと思ったのです。
(なお、上の聖書の引用は、たまたま私の手元にあった New American Standard Bible からです。エヴァンズ氏がどの訳から引用したのかは未確認です。)


※2:A Year of Biblical Womanhood は「聖書的女性の一年」とも訳せます。


※3:「福音派」対「福音派」は内ゲバのようでした。「内ゲバ」なんて言葉は今の若い人には通じないでしょうが、私が子どもの頃、たくさんの左翼過激派の団体があって、互いに対立し、同士討ちのようなことをしていました。近親憎悪ですかね。


※4:それでも残るものは何でしょう。
これは変えようがないというものは。
それも人によって違うのでしょうか。
キリスト教の中に誰も変えることのできないものがあり、それが真に価値のあるものなら、キリスト教は未来に進んでゆくことでしょう。
それを探すなら、神学論考よりも「イエスが人々に伝えようとしたメッセージ」の中に探すべきでしょう。神学的な色眼鏡を通してイエスの言葉を見るのではなくて。

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